平成25年4月9日(火) ~平成25年6月9日(日)
奥村玉蘭像 |
江戸時代の筑前(ちくぜん)福岡藩には、長く続く社会の安定と発展のなかで、伝統的な文化だけでなく、様々な分野に新しい学問、芸術、文化が発展しました。城下町福岡と博多の商工業の発展のなかで、それらの様々な文化は受け入れられ、多くの町人や知識人が、学者や文化人としても活躍しました。今回それらの足跡を尋ねて、本館に収蔵する名品や貴重な資料を、遺(のこ)された肖像画などとあわせて展示し、郷土の歴史と文化を紹介します。
○近世前期の数寄文化と上層町人
(17世紀~18世紀前半)
近世初期には、武家文化として茶道や禅宗、外来の唐物、絵画収集などを総合した数寄(すき)を好む文化が、大名や上層武士のなかに広がります。筑前の大名となった黒田氏のもとでは、古くからの博多町人の嶋井(しまい)家や神屋(かみや)家の初期の当主たちも数寄文化を嗜(たしな)む人々としても有名ですが、新たに福岡藩の特権商人となった大賀(おおが)氏に残された資料からも当時の文化人としての姿が窺えます。大賀氏は福博町人の筆頭として藩から扶持(ふち)や特権を受け、屋敷は藩の公的な客の宿泊に使われました。
○新しい学問・文化と福博の町人たち
(18世紀前半~中期)
18世紀前後の元禄(げんろく)時代以降には、全国的な社会の安定や産業・交通の発達と共に、儒学の普及や、文芸の芭蕉(ばしょう)の俳諧などに代表される新しい文化があらわれ、また福岡藩にも有名な貝原益軒(かいばらえきけん)などが儒学や歴史・地誌編纂(へんさん)などに活躍します。上方(かみがた)と経済のつながりの深い福岡・博多の上層町人や知識人もその影響を受け、それらの担い手として活躍する人々も出現しました。新しい学問である儒学を学んだ福岡の薬種(やくしゅ)商西村文介(にしむらぶんすけ)や、貝原益軒の著作に影響を受け、博多の歴史「石城志(せきじょうし)」を編纂した医師の津田元顧(つだげんこ)父子などが有名です。また芭蕉の俳諧を九州に伝えた蝶夢(ちょうむ)の弟子には、福岡藩の上層武士層のほかに、多くの福岡商人が見られ、幕末まで続く博多の俳諧文化の基礎をつくりました。また秋月(あきづき)藩の出身で、一家が浪人した後に京都の東山流の華道を学び、新しい華道を創始した千葉一流(ちばいちりゅう)も福岡に住み商人層に受け入れられました。これらの新しい文化は出版業と結び付いて、武士層にも普及しました。