平成25年4月9日(火) ~平成25年6月9日(日)
○交流する学者・文化人たち
(18世紀後半~19世紀前半)
福岡姪浜(めいのはま)の医師出身の亀井南冥(かめいなんめい)は、自由闊達な学風をもつ儒学者として、西国一帯で有名となり、藩校甘棠館(かんとうかん)の館長になりました。その影響と教えを受けて、福岡・博多町人や知識人にも、漢詩文や文人画をたしなむ文化人が現れました。
奥村玉蘭(おくむらぎょくらん)は博多の醤油をつくる商家に生まれながら絵画を学びました。また亀井派の失脚後も交流を続けたため藩に睨まれましたが、隠居して様々な文人活動や学者の支援などをおこない、自らも絵入りの地誌「筑前名所図会(ちくぜんめいしょずえ)」などを残しました。博多の豪商松永之登(しと)は家業と窮民救済などの町政に携わる傍ら、優れた漢詩文集「花遁詩(かとんししょう)」などを残しました。これらの文人たちは、博多に訪れた広島の頼山陽(らいさんよう)、日田の広瀬淡窓(ひろせたんそう)と言った当時著名な文人と交流したほか、南冥の弟で崇福寺の高僧・曇栄(どんえい)や、聖福寺の仙厓(せんがい)和尚などの博多の禅寺の知識人とも交流しました。
○町に住む絵師と画家たち
(18世紀後半~19世紀中期・幕末)
絵画の世界も藩の御用絵師の影響をうけ、福岡藩御用絵師の上田氏の弟子であった人形師三苫惣吉(みとまそうきち)は、山笠の絵師として認められ、三苫英之(えいし)や主清(しゅせい)などが幕末まで代々活躍しました。また上方で有名な画家齋藤秋圃(さいとうしゅうほ)も一時福岡近郊で町絵師として活動します。
博多町人出身の画家としては、文人画に優れた石丸春牛(いしまるしゅんぎゅう)や村田東圃(むらたとうほ)がいます。春牛は、博多の商人茶商大山忠平(おおやまちゅうへい、(「茶忠」)の番頭の子でしたが、自らも画業をたしなんだ主人に勧められて画業に専念しました。奥村玉蘭などとも交流が深く、奥村玉蘭の画像も描いています。東圃は製墨・文具商の出身で、文人画のほか、松永花遁(之登)の肖像画、さらに子の香谷とともに地元の絵馬や山笠なども画きました。
○激動の時代を生きた文化人と記録者たち
(19世紀中期・幕末~明治維新)
この時期に福岡藩でも盛んになった国学を学んだ福岡の商人大隈言道(おおくまことみち)は、家業を一族にゆずり、和歌の道に専念し、野村望東尼など武士層にも弟子を持ちました。のち上方にのぼり、この時代と郷土を読み込んだ独自の歌境を磨きました。さらに幕末~維新期の福岡博多の様々な社会の動きは、福岡の町人加瀬(かせ)家の当主が細かな記録をとどめています。このほかにも明治維新後に、大工職人庄林半助は絵入りの記録「旧稀集(きゅうきしゅう)」を残しました。また博多の年行司だった山崎宗雄(やまさきむねお、藤四郎)などが「追懐松山遺事(ついかいしょうざんいじ)
」など回顧録を残しています。(又野 誠)