平成25年8月20日(火)~11月24日(日)
百武万里像 |
この展示では、江戸時代の数学、医学、工学、あるいは農学、生物学、さらには博物学、地理学といった実学的な分野で、学者や技術者として活躍した福岡藩の人々に焦点を当て、彼らの残した事蹟を、館蔵の名品や重要資料によって紹介し、その業績を探ります。
現代ではおもに「理科系」に分類される学術や技術の分野の、歴史と文化をご覧ください。
○黒田長政の実学と軍事技術者たち
(17世紀~18世紀前半)
江戸時代の初め、初代福岡藩主であった黒田長政(くろだながまさ)は、武芸や用兵の能力にすぐれた人物ですが、馬の生態や医学なども学んでいます。長政の家臣には軍事土木に優れた人物が多く、黒田二十四騎の野口一成(のぐちかずなり)は福岡城築城に活躍しました。武器・武具なども最先端の工学的な技術で作られ優れた職人たちが福岡城下に集められました。甲冑師・田中氏や、長政の工夫した袋鑓(ふくろやり)を作った刀工・信国氏などが有名です。
○貝原益軒と宮崎安貞の学問と実践
(18世紀前半~中期)
17世紀半ばには社会も安定し、新しい学問も必要となり、鎖国時代の窓口であった長崎からは中国の科学・技術書も輸入されました。福岡藩儒学者貝原益軒(かいばらえきけん)は、中国の動植物、鉱物などの事典「本草綱目(ほんぞうこうもく)」をもとに日本に即した「大和本草(やまとほんぞう)」を著し、益軒の友人・宮崎安貞は、現在の福岡市西区の農村に住み、中国の農書の知識を、実験と実践によって改め、日本に即した「農業全書(のうぎょうぜんしょ)」を著します。益軒は自分の健康管理の実体験から「養生訓(ようじょうくん)」なども著し、現代に影響を与えています。
○福岡藩の藩医と在野・在村の医師たち
(17世紀前半~19世紀)
医学では江戸時代前期に多くの医家が福岡藩に召し抱えられました。また藩が長崎警備を勤めた関係から、原三信(はらさんしん)はオランダ医学を学びました。江戸時代後期には、数多くの藩医が、外科、内科、産科、小児科などに分かれて仕(つか)えていました。在野では、遠賀郡出身で貝原益軒などに学んだ香月牛山(かつきぎゅうざん)は産科、小児科の大家として、多くの著作を遺し、福岡藩医にも影響を与えました。19世紀には糟屋郡の田原氏は在村の眼科として著名で藩にも抱えられました。また百武万里(ひゃくたけばんり)など、オランダ医学を長崎で学ぶ人々も現れました。