平成25年8月20日(火)~11月24日(日)
○福岡藩の様々な実学と技術者たち
(17世紀後半~19世紀)
元禄時代、幕府の命じた日本全国の国絵図製作のために、筑前の国境の測量がおこなわれ、藩の絵図方の役人が、山中の稜線や海岸の測量に活躍し、その成果は「形相図」として残されています。またその測量技術、計算技術などを支えたのが、福岡藩で数学に通じた星野実宣(ほしのさねのぶ)で、彼は天文学にも通じ、月の運行図を残しました。18世紀後半には福岡藩士の久間氏が、日本独自の数学である和算(わさん)の学者として全国的に有名となり、多くの難しい問題集を残しています。獣医学では、福岡藩士田中氏が「馬医」として仕え、治療の記録を残しています。動物学では、藩の鷹匠の人々は、扱う鷹の生態の詳しい観察を残しています。植物学の分野では、山林の植生が実地体験などから記述された、藩の山方の支配にも役立つ「山林古老伝(さんりんころうでん)」などがあります。
また城下町の武家屋敷内での野菜栽培方法書「砂畠栽伝記(すなはたさいでんき)」などがあり、一種の農学書といえましょう。
○西洋地理学と藩主の博物学
(18世紀後半~19世紀中期)
18世紀後半にはロシア、イギリスなど新しい西洋列強の東洋進出に絡み、西洋の科学知識を、蘭学を通じて学ぼうとする人々が出ました。福岡藩では、初めは世界の地理学など紹介する人々が中心で、安部龍平(あべりゅうへい)や、のちに勝海舟の先生ともなった永井則(ながいそく)などの有名な蘭学者・地理学者が現れました。また19世紀の10代藩主黒田斉清(なりきよ)は、鳥類研究の学者として有名で、西洋の博物学なども学び、長崎の出島医師シーボルトとも交流しました。
○幕末・維新期の科学者と技術者
(幕末~明治維新期・19世紀後半)
幕末には11代藩主黒田長溥(ながひろ)が、西洋の進んだ科学・軍事技術を導入した藩政を目指し、藩士に長崎で軍事技術や科学技術を学ばせ、オランダ医学を学んだ家臣を自分の側近に登用しました。その一人河野禎蔵(かわのていぞう)は、後に化学を応用した農業技術書などを著わしました。明治の廃藩置県の後には、元福岡藩士の林遠里(はやしおんり)は、実験に基づいた筑前農法を広め、明治時代の半ばには全国に普及活動が行われましました。(又野 誠)