平成26年1月28日(火)~3月30日(日)
1 「博多古図」の「袖湊」部分(『石城志』) |
福岡藩の儒学者貝原益軒(かいばらえきけん)は、『筑前国続風土記(ちくぜんのくにしょくふどき)』(元禄(げんろく)16・1703年成立)のなかで「袖湊(そでのみなと)」の項を立て、「いにしへ博多にありし入海を袖湊といふ、唐船の入し港なり」と記しています。また、「此入海博多の中を打めくりて、袖のかたちのことくなりしかは、袖湊と名付しにや」といい、衣の袖の形から「袖の湊」と名付けられたのか、と推測し、最後に袖の湊を詠んだ和歌14首を列挙しています。
袖の湊についてのこの益軒の記述は、江戸時代の理解を代表するものであり、以後の研究に踏襲されていくことになりました。しかし、本当に「袖の湊」と呼ばれる港はあったのでしょうか。
一 和歌・紀行文の世界
「袖の湊」は、文書や記録ではなく和歌の世界に登場することが特徴です。
最も古い事例の一つが、鎌倉時代の初期、建仁2(1202)年に後鳥羽院(ごとばいん)が主催した『千五百番歌合(うたあわせ)』のなかに収められている藤原定家(ふじわらのさだいえ・ていか)(1162~1241)が詠んだ和歌「なくちどり、そでのみなとを、とひこかし、もろこし舟の、よるのねざめを」です。しかし、この歌は都で詠まれたもので、「袖の湊」を博多の港に特定したものではありません。
『千五百番歌合』のなかでは「伊勢物語に、おもほえず、袖にみなとは、さわぐらし、もろこし舟も、よせつばかりに、といふ歌をとりなせり」とあり、定家の歌は『伊勢物語(いせものがたり)』(10世紀の中頃までに成立)の本歌取(ほんかどり)として詠まれ、さらに、本歌は「袖の湊」ではなく「袖に湊は」となっていたことがわかります。思いがけず港に寄せる波がさわがしく立つことよ、もろこし舟が寄港しただけで、という意味でしょうか。
『伊勢物語』の「袖に湊」の歌は、袖・湊・もろこし舟(唐船)で構成され、「袖の湊」が対外的な港であった博多の港に特定されていく方向性があったといえるでしょう。
京都の歌人正広(しょうこう)は、寛正(かんしょう)5(1464)年に博多に立ち寄り、「風こえて、すゝしき袖の、湊舟、もろこし人や、秋をよすらむ」と「唐人の、心といかに、舟出して、袖の湊にならふ、夜の月」(『松下集(しょうかしゅう)』)という和歌を残しています。また、京都の連歌師猪苗代兼載(れんがしいなわしろけんさい)は、延徳(えんとく)2(1490)年、博多で「江にまねく、尾花や袖の、みなと風」(『園塵(そののちり)』)と詠んでいます。
さらに、歌人たちは「袖の湊」の位置を確かめるようにもなります。
天正(てんしょう)15(1587)年、細川幽斎(ほそかわゆうさい)は『九州道(きゅうしゅうみち)の記(き)』のなかで、「袖の湊」の和歌を2首詠んでいます。里人(土地の人)にここが「袖の湊」だと教えられて詠んだものです。また、天正20(1592)年、木下勝俊(きのしたかつとし)(長嘯子(ちょうしゅうし))は「袖の湊」はどこだ、とたずねたところ、博多の宿の主人は今は潮が満ちて海水は少しあるが普段は水がない、といい、長嘯子は「まことにもろこし舟よせつべき浦ともおぼえず」(『九州のみちの記』)と自分が抱いていたイメージとの落差に驚いています。
中世末期~近世初期になって、博多では「袖の湊」という和歌のイメージが、港の呼称として定着していたといえるでしょう。しかし、その「袖の湊」はすでに港としての機能を果たさないものになっていました。