平成26年4月1日(火)~6月1日(日)
六十二間阿子陀形筋兜・黄糸威胴丸具足 |
江戸時代の筑前福岡(ちくぜんふくおか)藩の藩士の家には、その家に仕える武士や奉公人たちがいました。彼らは直接には藩主には仕えていないので一般に「陪臣(ばいしん)」とも言われています。とくに家老と彼の家臣たちで作る軍団は、大名・黒田家全体の軍事力の担う一大戦力として関ヶ原(せきがはら)の合戦や、島原の陣などで活躍しました。また福岡藩の支藩の秋月(あきづき)藩や東連寺(とうれんじ)藩(直方(のおがた)藩)の家臣たちも、多くは黒田如水(じょすい)、長政(ながまさ)に仕えた家臣の家から別れていきましたが、島原の陣や長崎警備などで、黒田家全体の軍事力の一部を担いました。この展示では、家老やその家臣たちの甲冑、支藩家臣たちの甲冑を中心に展示し、軍事からみた福岡藩の歴史と武士の文化を紹介します。
一、福岡藩の軍団と家老の軍団
筑前福岡藩の黒田家の江戸時代前期の軍団の全容は、大名自身が率いる、馬廻りなど徒歩(とほ)や騎乗(きじょう)の武士を中心とした本陣の廻りに、前、後、左、右、などの備(そなえ)がおかれ、各備は、おもに家老が、騎乗の藩士や、槍(やり)、弓、鉄砲の足軽(あしがる)組を配属されて指揮します。配属された藩士たちは自分自身の家臣や従者を従えますが、家老の率いる家臣(陪臣)の人数は、圧倒的に多く、一つの軍団として各備の中核となりました。黒田家では、黒田騒動を始とする数度の政争で、栗山氏など大身の家老が幾人も福岡藩を去っていきましたが、それは家老自身の失脚だけではなく、彼の配下にいた武士たちの失職や離散をも意味する大事件でもありました。
二、家老三奈木黒田家と家臣の甲冑
三奈木黒田(みなぎくろだ)家は、黒田官兵衛(如水)が有岡(ありおか)城で荒木村重(あらきむらしげ)に幽閉(ゆうへい)された際に、村重の家臣加藤重徳(かとうしげのり)が官兵衛を密かに援助したのが縁で、子どもの玉松(たままつ)(一成(かずなり))が、長政のいわば弟分として、官兵衛に育てられました。成長して黒田家から戦力となる有力な武士を与力(よりき)として付属してもらい、とくに関ヶ原の合戦では、与力達などの活躍に支えられて、前哨戦(ぜんしょうせん)の合渡(ごうど)川の合戦で黒田家一番乗りをはたし、関ヶ原での本戦でも活躍しました。福岡藩の成立後、一成は黒田姓を与えられています。二代一任(かずとう)も、二代藩主黒田忠之(ただゆき)の時代におきた島原の陣などに自身の家臣と共に出陣しましたが、負傷して従者や家臣に助けられて戦場を離脱、彼の家臣達も負傷者が続出しています。さて、三奈木黒田家は、黒田騒動など藩内の政争で、多くの高禄の家老達が黒田家を去っていくなか、唯一、10,000石以上の領地をもつ大老に留まり、その家臣は総人数約280人におよびました。そのうち50石以上の家臣は56人、また与力の系譜を引く重要な家臣には、加藤の姓が与えられました。彼らは三奈木黒田氏の領地の中から、さらに給地を与えられ、約半数は福岡の三奈木黒田の屋敷で主人に仕え、残りは三奈木(朝倉(あさくら)市)に住んで、領地の管理をしながら、国境などの警備に当たりました。