平成26年4月15日(火)~6月15日(日)
三、家紋のルーツ
戦前、黒田家の家史編さんに関わっていた歴史学者・中島利一郎(なかしまりいちろう)は藤巴紋の由来として流布していた牢の藤説について「記述としては実に面白いと存じますが、これは他の比較研究の結果から申せば、先づ最も薄弱な説であると申す外ありません」と厳しいコメントを残しています【№36】。
実際、江戸時代後期の成立とされる「黒田家御紋由緒考(くろだけごもんゆいしょこう)」(朝倉市秋月郷土館蔵)には有岡城のエピソードは登場しません。その代わりに、江戸幕府に提出した系図に家紋は藤の丸内三橘(みつたちばな)で今は白餅を用いるとあること、藤巴紋は元々孝高が主君の小寺政職(こでらまさもと)から拝領(はいりょう)してそれを改変して使っているものであること、白餅紋は、①竹中半兵衛(たけなかはんべえ)が黒田長政の鎧初(よろいぞ)めの時に着せた陣羽織(じんばおり)に使われていたのが起源である説が流布しているが根拠が薄いこと、②近江源氏佐々木(おうみげんじささき)氏との関わりを示す文献があること、③元々は家臣の手塚水雪(てづかすいせつ)の紋とする説があること、④藤堂高虎(とうどうたかとら)からもらったという説があることなどが紹介されています。
一方、江戸時代初期に秋月藩(あきづきはん)初代藩主黒田長興(ながおき)が兄の福岡藩二代藩主黒田忠之(ただゆき)に宛てた書状には、家紋にまつわる興味深い記述があります【№40】。そこには藤巴紋は、長政が母親の紋を気に入って使うようになったもので、中の三つ橘を除いて藤巴のみに改変したとあります。母・照福院(しょうふくいん)は櫛橋(くしはし)家の出身ですが、小寺政職の養女として黒田孝高に嫁いでいる人物です。実は、政職が使ったと伝えられる旗には藤の丸内三橘紋が大きく染め抜かれており、こうした記述を裏付けます【№41】。白餅紋の成立については不明な部分が多いのですが、藤巴紋については、小寺家との関係によって誕生した紋であると言えそうです。
おわりに
黒田家の家紋はどれが正解ですか?というお問い合わせを受けることが多いので、試みに家紋の展覧会を開催してみました。ますます謎は深まってしまったかもしれませんが、家紋というのはそもそもそういうものなのかもしれません。家紋に隠された様々な物語に興味を持っていただければ幸いです。 (宮野弘樹)
※白餅紋は黒餅(こくもち)紋や石餅(こくもち)紋といった表記もありますが、江戸時代の黒田家の系譜類の記述から白餅紋に統一しています。