平成26年6月3日(火)~7月27日(日)
写真「工場で働く女子挺身隊と少年」 |
戦局の悪化と教育
昭和16(1941)年3月、国民学校令が公布され、4月からこれまでの小学校は、国民学校に改められます。尋常小学校が国民学校初等科(6年)、高等小学校が同高等科(2年)とされました。高等科までの8年を義務教育と定めていましたが、戦争の激化によって実施には至りませんでした。教育の目的は、従来の知識・技能の習得から、「皇国ノ道ニ則リテ初等普通教育ヲ施シ国民ノ基礎的錬成ヲ為ス」(国民学校令第一条)こと、つまり「皇国民の錬成」に変わりました。学習教科の体系も、国民科(修身・国語・国史・地理)、理数科(算数・理科)、体錬科(武道・体操)、芸能科(音楽・習字・図画・工作・裁縫)の4科にまとめられました。「皇国民の錬成」は座学だけでなく、実践作業も伴うものであったため、少年団の活動は下火になっていきました。
同年12月、太平洋戦争が開戦します。12月8日に出された開戦の詔書は、全国の官公庁や各種団体、施設に配布されました。学校にも配布され、生徒の前で読み上げられました。御供所(ごくしょ)国民学校では、奉安殿という建物に、昭和天皇・皇后の写真(御真影)などとともに保管され、朝礼などの儀式の際に生徒たちの前で読み上げられたそうです。
戦局が悪化した昭和18(1943)年以降は、中等学校程度以上の学校生徒に、工場などでの勤労が義務付けられ、学校教育が一部停止される状態になりました。さらに、文科系学生に対する徴兵猶予が停止され、学徒兵としての動員がはじまります。国民学校初等科では、空襲の激化を想定して、子どもたちを地方に疎開させる動きが起こりました。
戦争に優先的に人・物的資源が配分されたため、国内では食料・物資の不足が深刻化しました。
昭和20(1945)年8月15日、長く続いた戦争が終わり、日本は連合国軍の統治下に移行します。戦後になって、教育は大きく変化しました。9月20日、文部省は教科書から軍国主義的な記述や、国際和親を妨げる記述の削除を指示しました。また、日本の非軍事化・民主化を図る連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)は、教科書から神道に関する記述を削除すること、修身、国史、地理の授業の停止と教科書の回収を指令しました。翌年1月、文部省はGHQの承認を得て、国語と算数の教科書に関する削除、修正箇所の表を各都道府県に通知しました。これをうけて、各学校で教科書の項目、記述を墨で消す「墨塗り」がはじまります。
昭和23(1948)年に制定された学校教育法により、小学校6年、中学校3年、高等学校3年とする6・3・3制が整備されました。戦争の時代に左右された子どもたちのくらしも、平時へと移ることになりました。
(野島義敬)