平成27年2月17日(火)~平成27年4月19日(日)
三、祖師を慕う
大寺院や宗派を開いた高僧の肖像は後に続く人々の心のより所となり、時には信仰の対象にもなりました。
千如寺大悲王院の「三宝院流歴代尊師(さんぽういんりゅうれきだいそんしみえい)御影」(6)は、真言宗醍醐寺(だいごじ)ゆかりの密教の流派「三宝院流(さんぽういんりゅう)」の高僧37人を描いた系図のような肖像画です。平安から江戸時代におよぶ歴代祖師の姿からは伝統の重みが感じられます
福岡市東区馬出(まいだし)にある称名寺(しょうみょうじ)の「伝教大師坐像(でんぎょうだいしざぞう)」(7)は、かつて同寺境内にあった「博多大仏(はかただいぶつ)」に付属する「八宗開祖像(はっしゅうかいそぞう)」の一躯で、銘文から福岡仏師の高田又四郎良慶(たかだまたしろうりょうけい)(1847~1915)が明治37年(1904)に制作したことがわかります。又四郎は日本の伝統的な仏像様式と明治期に西洋から学んだ写実表現を融合した仏像を残したことで知られ、晩年に制作した佐賀県基山町、瀧光徳寺(りゅうこうとくじ)の「弘法大師坐像(こうぼうだいしざぞう)」(8)にもその作風がよくあらわれています。
四、神仏に祈る
江戸時代以前、一般に神と仏は本来同じ存在と考えられ、祈りの場では社寺の違いを問わず仏教経典の書写や読誦(どくじゅ)がおこなわれてきました。
千如寺大悲王院に伝わる「称讃浄土仏摂受経(しょうさんじょうどぶつしょうじゅきょう)(断簡)」(9)は、中国・唐時代の僧、玄奘(げんじょう)が翻訳した阿弥陀如来の功徳を説く経典で、奈良時代に多数書写されたことが知られています。本断簡も丁寧で伸びやかな筆跡をしめすことからその一部であった可能性があります。
福岡市東区にある筥崎宮(はこざきぐう)の境内から出土した「瓦経(がきょう)」(10)は、四角の粘土板に『仁王経(にんのうぎょう)』などの経文を刻み焼きしめたものです。平安時代後期には仏法が廃れ世の中が乱れるとする末法思想(まっぽうしそう)が流行し、経典を地中に埋める埋経(まいきょう)が盛んにおこなわれました。この瓦経も当時の信仰を物語る遺品で、八幡信仰との関係がうかがわれる点でも貴重です。
11 鍍金鐘(志賀海神社) 重要文化財 |
五、神仏に捧げる
神社や寺院には、人々が願いをかなえるために神仏に捧げた、様々な奉納品や絵馬などが伝えられています。
志賀海神社の「鍍金鐘(ときんしょう)」(11)は全面に鍍金(ときん)(金メッキ)を施した朝鮮・高麗時代の梵鐘で、上部には朝鮮鐘の特徴であるS字状に体をひねる龍(龍頭(りゅうず))と筒状の突起(旗挿(はたさし))があらわされています。日本にもたらされた時期は不明ですが、龍は海神を祀る志賀海神社に相応しいことから、中世に対外交渉に携わった人々が奉納したものでしょうか。
福岡市博多区千代(ちよ)にある崇福寺(そうふくじ)は福岡藩主黒田家の菩提寺(ぼだいじ)であり、歴代藩主の葬儀や法要に際して藩から寄進された数多くの染織品(せんしょくひん)を伝えています。黒田家の藤巴紋(ふじどもえもん)入りの唐織(からおり)で作られた豪華な「打敷(うちしき)」(12)は、須弥壇(しゅみだん)の前机を飾る敷物で、裏書から寛政7年(1795)に死去した9代藩主斉隆(なりたか)の葬儀に関連する品であったことがわかります。もとは奥方など黒田家ゆかりの女性が身につけた小袖(こそで)であったとみられます。
13 競馬図絵馬 (青木上ノ原八雲神社絵馬保存会) |
また江戸時代に廻船業(かいせんぎょう)で栄えた筑前五ヶ浦のひとつ、福岡市西区宮浦(みやのうら)にある三所神社(さんしょじんじゃ)の「武者図絵馬(むしゃずえま)」(14)は、葛飾北斎(かつしかほくさい)に学んだ浮世絵師、柳々居辰斎(りゅうりゅうきょしんさい)(生没年不詳)による加藤清正(かとうきよまさ)の虎退治を描いた絵馬で、墨書から享和3年(1803)に廻船の船頭たちが奉納したことがわかります。航海の安全を願って奉納されたものでしょう。 (末吉武史)