福岡市の中央に連なる遺跡群
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クエゾノ遺跡でみつかった
弥生時代の超大型掘立柱建物 |
早良区梅林(うめばやし)7丁目の低丘陵地にあるクエゾノ遺跡で、床面積が100㎡を越える超大型の掘立柱建物がみつかりました。弥生時代、約二千年前の遺構と推定されています。この遺跡からはかつて、朝鮮半島北部の楽浪郡からもたらされた青銅の鏃(やじり)が7点も出土しており、有力者の墳墓があったと考えられていました。同時代と推定される大型建物の発見は注目を集めています。北の飯倉(いいくら)丘陵にも同時代の遺跡があり、一連の遺跡群と考えられますが、発掘調査は飯倉遺跡群の方が進んでいます。飯倉D遺跡では、青銅器生産と鉄器生産を行った工房などがみつかっています。道具の鉄器化が進む弥生時代は鉄への需要が急速に高まります。前述の比恵遺跡群でも鉄素材が取引されたようです。飯倉D遺跡では、朝鮮半島製の鉄素材、鉄器加工の切れ端、各種鉄製農具・工具が出土しており、弥生時代の鉄事情がよく分かります。
幻の前方後円墳は5世紀の群集墳
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古墳時代の鉄器ほか
(徳永Ⅰ-3号墳石室の副葬品) |
西区大字徳永(とくなが)にある山ノ鼻(やまのはな)1号墳は4世紀の前方後円墳で、国史跡・今宿(いまじゅく)古墳群の一つです。隣接する「山ノ鼻2号墳」も前方後円墳と考えられてきましたが、区画整理にともなう徳永B遺跡の発掘調査で、直径15m前後の円墳などが群集する古墳群であることが明らかになりました(徳永古墳群Ⅰ群)。大きい古墳はありませんでしたが、4基以上の古墳から、鉄製の剣や刀、滑石、碧玉、ガラスの玉類、銅鏡、櫛など、比較的多くの副葬品がみつかっています。中でも3号墳の石室からは、このような鉄器や玉類のほかに、福岡市で最古・最大となる鉄鉗(かなはし)や、鏨(たがね)などの鍛冶(かじ)道具もみつかっています。古墳群は5世紀前半に造られたものですが、朝鮮半島との活発な交流のもと、鉄器の生産技術が発展する時代であり、被葬者は先進的な鍛冶を統括した人物でしょう。さらに、朝鮮半島に源流があり、沖ノ島などでも出土している蕨手刀子(わらびてとうす)と呼ばれる鉄製祭器の束も副葬されていました。
徳永で新しく発見された古墳群は、朝鮮半島との交流にも重要な役割を担い、今宿平野の豪族を支えた有力集団が眠る古墳群と考えられます。
中世の弔いと祈りのカタチ
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浦江谷遺跡でみつかった中世墓 |
浦江谷(うらえだに)遺跡は室見川の中流域、西区金武(かなたけ)の南部に位置する遺跡で、約20年前、室見が丘の宅地造成前に、大規模調査がなされました。1次調査2区は弥生時代から江戸時代の墓地で、12~14世紀の中世墓が群集していました。墓は木棺葬ですが、周囲に石組が構築されたものもあります。白磁、青磁などの陶磁器をはじめ、湖州鏡(こしゅうきょう)と呼ばれる銅鏡や銅銭の「崇寧通寶」など、中国でつくられた舶来品が多く副葬されており、有力集団の共同墓地です。室見川東岸の沖積地では、清末(きよすえ)遺跡など在地領主層の居館がみつかっており、関連が考えられます。また近年の研究で、浦江谷遺跡の中世遺構の一部は、経典の埋納施設である経塚(きょうづか)ではないかとの指摘もあります。墓地に経塚が営まれる事例が九州では珍しいので、今後の研究によって、さらに遺跡の価値が高まることが期待できます。
ここで紹介した遺跡以外にも、古代の徳永A遺跡(大宰府・鴻臚館(こうろかん)と怡土城(いとじょう)をつなぐ役所跡)の調査成果や福岡城の整備調査などについても展示します。 (森本幹彦)