平成27年8月18日(火)~11月23日(月・祝)
経筒の三兄弟
写真2 福岡市西区飯氏・兜塚古墳出土 銅製経筒 旧福岡市立歴史資料館資料 福岡市博物館所蔵 |
兜塚古墳の経筒は、とても変わった形をしています。全体の高さ42.0㎝の大ぶりで、筒身は銅板2枚を縦に貼り合わせ、台・蓋(ふた)は九州特有の積上式(つみあげしき)経筒そのものです。別に相輪(そうりん)形の鈕(ちゅう)が付属していて、蓋の上に載せます。全体として塔の形をまねています。これまで出土地名表に記載されたことがなく、ほとんど知られていませんでした。
古墳の説明板作成に伴う資料調査に先立ち、写真を拝見したところ、何となく見覚えがありました。考古学に携わる者は資料の形をよく記憶していて、「似たものが確かあの遺跡で出ていたな」と思い出すことがあります。
文献を探すと、やはりありました。奈良国立博物館所蔵の伝大分県出土品と全く同じだったのです。銅製経筒の中には、サイズ・作り方・形の全く同じものが存在し、同じ工房・作者が製作したとみられるものがあります。「同形態経筒」と呼ばれています。兜塚古墳の資料はその新例で、この形では出土地の明らかな唯一の例です。残念なことに、出土状況が不明です。
その後、同じ形の経筒が初めて発掘調査で出土しました。場所は佐賀県唐津市・古園(ふるぞの)遺跡、平成20年度の西九州自動車道建設に伴うものでした。
写真3 佐賀県唐津市千々賀・古園遺跡出土 経塚遺物 (佐賀県重要文化財 佐賀県教育委員会提供) |
二段に掘った穴の底に台石を敷き、その上に銅製経筒を据え、上から四耳壺(しじこ)を被(かぶ)せ、周囲に木炭を詰めていました。副納品は少量ですが、檜扇(ひおうぎ)が含まれているのは、珍しい事例です。経筒の埋納方法は、九州でよくみられるものと変わりません。相輪鈕は兜塚古墳例・奈良国立博物館例とは形がやや異なり、相輪を載せる台座が付いています。古園遺跡例が元々の形で、兜塚古墳・奈良国立博物館例を経て、積上式経筒の形になっていった可能性があります。
冒頭に記したように、出土地伝承品は伝承が後付けの場合もあり、必ずしも確かではありません。また贋物(にせもの)の可能性もある場合、考古学の研究資料として使えません。しかし古園遺跡のように発掘調査で確認されれば、その欠点が一挙に解消され、貴重な資料として扱えるようにもなるのです。
こうして同じ場所で生まれたかもしれない「経筒の三兄弟」が九百年の時を超えて、再び出会ったのです。
九州では珍しい経塚と墓地の複合遺跡
浦江谷(うらえだに)遺跡は、早良平野の南西部、飯盛山の南東方に位置し、現在室見が丘住宅地となっています。1995年の発掘調査で、30基余りからなる12~14世紀の墓地が見つかりました。中には湖州という中国南宋の生産地名をつけた銅鏡や青・白磁を多量に副葬する木棺墓があり、社会的地位の高い人々の共同墓地だったようです。
調査報告書を読んでいると、そのような墓とは造りの異なる遺構が数ヶ所あることに気がつきました。壁に石組みをしたり、二段掘りの最下段に木炭を詰めたりした円形の穴で、中から磁器の合子(ごうす)・小刀(しょうとう)・銅鈴(どうれい)・ガラス玉が出土しています。または中国南部産の陶製四耳長胴壺(しじちょうどうこ)を据えています。火葬した骨や木棺の鉄釘は見つかっていません。
これらの遺構は経塚ではないかとみられます。出土品は経塚の副納品の組み合わせと共通し、長胴壺も経筒として九州ではよく使用されるものです。そして骨の出土がないことが大きな裏付けとなります。
これまで経塚と墓地との関係は兵庫県および京都府の北部、旧但馬(たじま)・丹後地域を中心に議論されてきました。例えば経塚の造営をきっかけに周囲が墓地になったり、死者の弔(とむら)いのために経塚を墓のすぐ側に造ったりということです。
ところが、九州ではこれまでそのような明確な事例がなく、議論の対象とされては来ませんでした。浦江谷遺跡も経塚との複合遺跡として評価されたことはなく、貴重な事例となる可能性があります。
一方で新たな疑問も浮かび上がります。副納品が豊富なことも、九州よりむしろ近畿など他地域に見られる特徴です。なぜこのような構造を採用しているのか。近畿との影響関係はあったのか。経塚と墓とではどちらが古いのか。真実にたどり着く道は、遠く険しいようです。
経筒にみる遠距離間交流
経筒は記された銘文から、経塚造営を勧(すす)め、その資金集めをする僧たちによって各地に運ばれたと考えられます。その中で非常に遠く離れた地域からもたらされた、影響を受けたとみられる事例があります。
宮若市・幸崎(こうざき)経塚出土銅製経筒は、径16.4㎝の太身で筒と底を一体で鋳造しています。これは中部地方以東、いわゆる東国によく見られる特徴で、九州では唯一の例です。
逆の事例もあります。霊峰筑波山の麓(ふもと)、茨城県土浦市・東城寺(とうじょうじ)経塚群は明治24(1891)年に掘り出され、遺物が散り散りになりました。その一つ、天治元(1124)年銘銅製経筒は筒を逆さにして覆(おお)い被せる型式で、類例は朝倉市・大佛山(だいぶつやま)経塚例が唯一です。その上九州に特徴的な瓔珞(ようらく)(ガラス玉や金属板を連ねた飾り)を線で刻み表現しています。また報告によると、行方不明になった経筒の中には積上式経筒とみられるものが含まれているとの指摘があります。
九州と東国がなぜ、どのように結びつくのか。そもそも結びつけてよいものか、明確な答えは出せていませんが、興味深い事例として、注意しておく必要があるでしょう。
「見直す」ことの大切さ
文化財の評価は、視点・関心がどこに向いているか、調査の精度や評価者の知識の深まりに大きく左右される側面があります。従って後々に評価が改まり、高くなることもしばしばあります。
経塚の研究では、資料の大幅な増加が望めないため、歩みはゆっくりですが、見直す余裕があります。すでに知られているはずのものから、新しい事実を引き出すおもしろさ。それを知っていただくきっかけになれば幸いです。
(木下博文)
写真提供
京都大学文化財総合研究センター、奈良国立博物館、佐賀県教育委員会、佐賀県立博物館、東京国立博物館、福岡市埋蔵文化財センター、福岡市埋蔵文化財調査課、愛知県陶磁美術館、九州国立博物館、九州歴史資料館、大野城市教育委員会、厚真町教育委員会