平成27年10月20日(火)~12月13日(日)
図1 油山(左)・背振山(中央奥)・荒平山(右)
油山(あぶらやま)は、福岡市の南部、早良区(さわらく)・城南区・南区にまたがる標高597mの山(図1)で、東の山腹には「油山市民の森」が設けられ、週末には森の自然に親しむ親子連れでにぎわっています。中世では、西油山には天福寺(てんぷくじ)、東油山には泉福寺(せんぷくじ)という二つの山寺があり、双方とも大きな寺域を誇り、栄えていたとされています。
しかし、その実態はあまり知られていません。泉福寺は、その法灯を今に伝える油山観音がありますが、天福寺の方は、その存在が忘れ去られ、寺域跡はうっそうとした杉林のなかに眠っています。
この展覧会では、文献史料や考古資料などから、なぞの山寺といえる油山天福寺について、その実態と歴史的意義を解明しようと思います。
図2 筑前国続風土記
[1]油山天福寺をめぐる謎・疑問
油山天福寺について書かれた最初のものは、貝原益軒(かいばらえきけん)の『筑前国続風土記(ちくぜんのくにぞくふどき)』(元禄(げんろく)16・1703年成立 図2)と思われます。
「聖武帝(しょうむてい)の御宇(ぎょう)(在位724−49年)にや、清賀(せいが)といへる僧、此山(このやま)に住し、胡麻(ごま)を多く作り油を搾(しぼ)りて、怡土郡(いとぐん)諸寺に遣(つか)はしける。是(これ)によりて油山と云(いう)」と、山名の由来を述べ、「昔は龍樹権現(りゅうじゅごんげん)の下に、天福寺と云禅寺あり。山号(さんごう)西油山と云。僧坊三百六拾区有しと云。今は一坊もなし、其址竹林となれり」と、天福寺について書いています。
しかし、「天福寺」という寺号も「西油山」という山号も、さらに禅宗寺院であったということも何を根拠としたのかはっきりしません。また、開山(かいさん)や創建時期についても触れていません。天福寺の滅亡については、背振山東門寺(せふりやまとうもんじ)の侍童(じどう)が過失を行い、天福寺に隠れ込み、天福寺が侍童を返さなかったので、怒った東門寺(とうもんじ)の僧徒(そうと)が天福寺を焼いた、と述べていますが、その時期は「むかし」とし、時期を明記していません。
このように益軒さんの研究をもってしても、油山天福寺には不明な点が多いといえるでしょう。
[2]天福寺の創建
『筑前国続風土記』には、「天福寺」という寺号や「西油山」という山号を明記していますが、それ以前の史料に「天福寺」や「西油山」と記載されたものは見当たりません。中世の史料では「油山」としかでてこず、現在のところ、「天福寺」「西油山」の寺号、山号については不明とせざるをえません。
また、開山や創建時期についても『筑前国続風土記』には明記されていません。益軒さん以後、開山を清賀上人とする説もでていますが、清賀上人の伝説は平安時代末期~鎌倉時代初期ころに作られたと考えられます。清賀上人の実在もあやしく、奈良時代の聖武朝期の人物ではありません。伝西油山出土の経筒(きょうづつ)銘文などから推測すると、天福寺は平安時代後期の11世紀末には建立されていたと考えられます。
益軒さんは、天福寺は禅宗寺院であったとしています。しかし、「聖光上人伝(しょうこうしょうにんでん)」によると、浄土宗第二祖となる聖光上人(1162−1238、弁阿弁長、鎮西上人)は、浄土宗を開いた法然(ほうねん)上人に帰依する以前は比叡山で天台の教えを学び、建久2(1191)年に「油山」一寺の学頭に就任した際には、多くの僧や人びとが集まってきたと記しています。このことから天福寺は禅宗寺院ではなく、天台系寺院であったと思われます。