平成27年9月1日(火)~12月6日(日)
図3 左:「油山」銘梵鐘 山口県防府天満宮蔵
図4-1 右上:中国系軒丸瓦(破片)
図4-2 右下:薩摩塔の一部(四天王像破片)
[3]天福寺の展開
益軒さんは、天福寺には僧坊が360坊あったとしていますが、その場所はどこか、360坊の坊数は本当なのか疑問です。
昭和9(1934)年の竹岡勝也(たけおかかつや)氏の調査報告、山口裕平、岡寺良の両氏による近年の考古学調査によって、油山北西の中腹(大字「坊中」)、比高差約150m、南北約750m、東西約200mの傾斜地に、70前後の平坦面の遺構が確認されました。南北に細く長い谷の中央に参道が走り、その両側に僧坊が建ち並び、上部には瓦葺(ぶ)きの礎石建物など、一部石垣をともなう伽藍が存在し、その西側尾根には五輪塔をはじめとする墓域、最上部には経塚(きょうづか)が展開する配置となっていたと思われます。
鎌倉時代の文応(ぶんおう)2(1261)年、博多綱首(はかたこうしゅ)(博多居住の中国貿易商人)と思われる鄭三綱真(ていさんこうしん)の子息である僧禅念が、若き日に僧となった「油山」の寺のために鐘(図3)を鋳造奉納したこと、また採集された薩摩塔と呼ばれる特異な中国製石塔(壷形の塔身に尊像、四角の須弥壇(しゅみだん)に四天王像を彫る)や中国系瓦(図4-1・図4-2)、白磁・青白磁・青磁・陶器などの中国製陶磁器などから、天福寺には、博多居住の中国貿易商人との関係が生まれていたと思われます。かれらの活動は、博多だけにとどまらず、周辺の山寺にまで拡がっていたといえるでしょう。
図5 延文6年9月 日 龍造寺家平軍忠状
佐賀県立図書館蔵
[4]天福寺の滅亡と東油山泉福寺の創建
益軒さんがいうように、侍童の争奪をめぐる背振山東門寺との抗争によって、天福寺は滅亡したのでしょうか。
現在の時点では滅亡の原因は不明とせざるをえませんが、南北朝時代の正平(しょうへい)10=延文(えんぶん)6(1361)年8月6日、南朝方菊池武光(きくちたけみつ)と北朝方少弐頼国(しょうによりくに)の戦い「油山合戦」(図5)に巻き込まれ、天福寺は滅亡したという可能性を指摘しておきたいと思います。これは、採集された薩摩塔、中国系瓦、中国製陶磁器の下限が14世紀前半という時期とも符号するものです。
博多承天寺を開いた聖一国師(しょういちこくし)の、四代法孫(ほうそん)である平田慈均(へいでんじきん)(?−1364、27歳のとき元に留学)を開山とする東油山泉福寺の創建時期は、14世紀半ばころと考えられます。この時期は天福寺滅亡の時期とほぼ重なり、交替するように東油山の地に禅宗寺院泉福寺が建てられたものと思われます。中世の油山に天福寺と泉福寺が同時に存在し、東西競うように繁栄していたと考えることはできません。
このように、滅亡原因を含め天福寺にはまだまだ未解明な点が多く、本格的な発掘調査が待たれます。
(林 文 理)