平成27年12月15日(火)~平成28年2月7日(日)
太宰府鷽替図巻(部分)
4、描かれた筑前の四季と祭り
ここで筑前の1年を黒田資料のなかの絵画で辿ってみましょう。まず正月15日、太宰府(だざいふ)では鬼すべと鷽替(うそか)えの行事が行われ、1年の無事を祈ります。描いたのはこれも斉藤秋圃で、当時の人々の1人1人の表情まで生き生きと描かれています。続いて御用絵師・尾形洞霄の長崎港の図は、稲佐山から湾の入り口を眺め、入港するオランダ船と警備の福岡藩軍船などを描いています。江戸時代の長崎は、幕府直轄(ちょっかつ)の貿易港でその警備は福岡藩と佐賀藩が担当していました。江戸の初めは担当の年は福岡藩主は4月までに江戸から福岡に帰国、初夏のオランダ船の入港の知らせを聞くと、長崎へ軍勢を引き連れ、海路出発しました。後になると陸路が中心となりました。春先から6月ごろまで福岡の城下は、藩主帰国と長崎行きのための、船や人馬のごった返しが続きました。そして夏の博多では祇園祭(ぎおんまつり)の勇壮な山笠が立てられ、その姿は、山笠造りの絵師・三笘氏によって描かれています。黒田家に残された山笠図は、町々がその年に仕立てる山笠の図案の許可を得るために町奉行所に提出したものと言われています。秋を彩る、こぼれるような懸崖(けんがい)の菊を墨画で描いたのは、幕末から明治に北部9州や熊本で活躍した日田(ひた)の文人(ぶんじん)・平野五岳(ひらのごがく)(1809~1893)です。
古所山(こしょさん)図で冬の筑前秋月の山野の風景を描いたのは、斉藤秋圃です。古所山は、筑前ほぼ中央の標高約860m、戦国時代の秋月(あきづき)氏の城址で、遠く筑後(ちくご)や瀬戸内海・周防灘(すおうなだ)も望めたといわれます。ふもとの村々では稲の刈取りも終わり、農家の庭や畦(あぜ)、里山(さとやま)には、真っ赤な葉をつけた櫨がいたるところに描かれています。
櫨はその実を絞って蝋を生む、江戸時代の中ごろから近代までの、筑前地方の代表的産物でした。その実は櫨の紅葉が落ちる12月以降採取されるといわれます。
5、黒田家の名宝を詠う
最後に黒田家に伝えられ名宝を詠った詩を紹介します。まず現在国宝として福岡市民の宝となって金印が天明(てんめい)4(1789)年に志賀島で発見されたことを漢詩と絵で描いたのは、福岡崇福寺(そうふくじ)の住職も務めた亀井曇栄(かめいどんねい)(1750~1816)です。曇栄は、金印が漢の皇帝が日本に与えたものと最初に説いた学者・亀井南冥(1743~1814)の弟です。黒田長政(1568~1623)の大水牛脇立兜は現在福岡市博物館所蔵の国の重要文化財ですが、その兜をかつて勇壮な詩吟でうたったのが、那珂川町出身の松口月城(1887~1981)です。黒田資料の中にはそんな変り種もあります。
(又野 誠)