平成28年1月26日(火)~4月3日(日)
福岡市内では発掘調査が今日もどこかで行われています。埋蔵文化財包蔵地(まいぞうぶんかざいほうぞうち)として登録された遺跡が千数箇所以上、旧石器時代から現代まで営々と人々の暮らしが営まれてきた福岡市では発掘調査に終わりは見えません。発掘調査の成果は、大きく報道される成果もあれば、ひっそりと発掘調査報告書のみで報告される発見もあります。どちらかというと地味で地道な発掘調査の成果ですが、扱われ方次第で、地域の歴史を解き明かすための重要な「鍵(かぎ)」として認識されることがあります。数多くの物言わぬ「モノ」の声を聞いて、過去の生活を解明していく作業は完成することのないパズルを組み立てていく作業に似ていますが、そこには歴史を紐解く「ヒント」が隠されているようです。
「ふくおか発掘図鑑」と題した展示も今回で第6回を迎えます。今回の展示では華やかに報道された発掘調査の成果を中心に最近実施された福岡市内の発掘調査の成果を振り返ってみます。
博多遺跡第203次 調査風景
報道される発掘調査成果と報道されない成果
今年度は例年より多く、福岡市内の発掘調査が新聞やテレビなどのマスメディアにより取材され、報道されました。遺跡の発掘調査の成果が報道される際の傾向としては、「最古」や「最大」などの仰々しい枕詞(まくらことば)が付されることがよくあります。確かにこのような記事としての売りは読者や視聴者の関心を引きつけますが、遺跡が備えている様々な情報や正しい評価はあまり触れられていないように見受けられます。しかし、最近の福岡市内での発掘調査に関連する報道はどちらかというと地味な内容でした。現在も発掘調査が継続して行われている博多遺跡の第203次調査地点(以下、203次)は、市営地下鉄4号線延伸工事に先だって実施されている調査です。報道された内容も「最古」などの華々しい枕詞が付されるものではなく、遺跡範囲の端にあたる203次付近にまで弥生時代から中世におよぶ人々の活動の痕跡が発見されたという内容であり、これまでの博多遺跡の調査成果を再認させるものとなっていました。
また、この203次地点はNHK放送の番組でも取り扱われ、博多遺跡の名前を全国区まで押し上げることになりました。この番組では、博多遺跡が砂丘の上に広がる遺跡であることや、弥生時代から現代まで営々と人が住み続けていること等が紹介されましたが、その反響は大きいものでした。特に「福岡」で暮らす方々からは「番組を観てはじめて博多遺跡が砂丘の上にあることを知った」とか、「普段歩いている道路の下にお墓(甕棺墓(かめかんぼ))が眠っているなんて知らなかった」などというお声を頂きました。
このような博多遺跡をはじめとする様々な遺跡の情報については、これまでの企画展示・常設展示室での解説や多くの書籍によって、ある程度は認知されていると考えていました。今回の番組をきっかけとして、より多くの方々に遺跡がもつ情報をより分かりやすく、繰り返し伝えていくことが重要であることを再認識しました。
では、報道では取り扱われなかった「博多遺跡のはじまりはいつか」について、最新の調査成果から考えてみます。これまでの調査では弥生時代前期の終わり頃(紀元前3世紀中頃)から博多遺跡で人々が暮らし始めたということが分かっていました。これは生活に伴う土器の出土や甕棺墓などの発見により集落が存在していたことを意味していますが、発掘調査ではこれに先立つ縄文時代晩期の土器も発見されています。縄文時代晩期の博多遺跡は砂丘がまだまだ未発達な状態であり、生活するには不十分な地形であったと考えられているので、土器自体は偶発的に持ち込まれたものかもしれません。ところが203次調査では縄文時代早期(約一万年前)の異形石器(いぎょうせっき)(トロトロ石器)が出土しました。縄文時代早期の海岸線は現在よりも大きく低下している段階(-30~-6m付近)であり、博多遺跡が展開する砂丘はまだ形成されていない頃の資料となります。その石器が砂丘砂の中から出土したということは、おそらく御笠川上流域から土砂などの堆積物とともに流入したものだと考えられます。とはいえ、博多遺跡全体ではまだまだ8%程度しか発掘調査が実施されていませんので、今後さらに古い集落痕跡が発見され歴史が塗り替えられる可能性もあります。
一方、このような報道ではほとんど取り扱われず、「発掘調査報告書」という形で世に出る新発見が毎年のように報告されています。このような新しい成果は「発掘調査報告書」により報告されますが、発行部数が限られていることやこれらの報告書が図書館や各市町村の調査機関を優先して配布されているため、一般の方はなかなか目に触れることのないものとなっています。
毎年、前年度以前に実施された発掘調査の成果が報告書として発行されるわけですが、その中でひっそりと新発見が報告されている場合もあります。井尻(いじり)B遺跡32次調査の報告書では、竪穴住居跡から多量に出土したガラス玉について詳細に報告が行われています。通常、ガラス製の小玉や管玉は墓から出土することが多く、住居から出土する例は比較的に少ないものであります。報告者は住居廃絶に伴う儀礼行為の所産と評価しています。また、これらの儀礼に伴って散布されたガラス製玉類についても、最新の科学的分析が実施されています。分析により製法と材料が識別され、多くの資料が対外交流によって持ち込まれたものであることが判明しました。直径2~5㎜程度のガラス製玉類の分析から弥生時代後期の数千㎞におよぶモノの移動と人々の交流の痕跡が確認されたのです。
このような小さいけど歴史的には大きな意味を持つ発見は、華やかには取り扱われずにひっそりと過去の事実を私たちに教えてくれます。福岡市博物館の常設展示室で展示されている「ふくおかの歴史」もこのような地道な発見を紡ぎあわせたものであり、近い将来大きな発見により上書きされていく可能性もあるのです。