平成28年1月26日(火)~4月3日(日)
今後、注目される遺跡の調査
箱崎遺跡は博多遺跡と並び中世に栄えた集落遺跡として知られています。実際には箱崎遺跡も弥生時代後期から甕棺墓が営まれ、続く古墳時代には円墳や方形周溝墓が築造されるなど、博多遺跡と同様に砂丘上に展開しながら、砂丘の成長とともに集落範囲が拡大していったことが分かっています。
近年、箱崎遺跡の範囲内でも発掘調査の件数が増加し様々な発見が続いています。箱崎遺跡中央部東側で実施された第72次調査では梵鐘(ぼんしょう)の鋳造遺構(ちょうぞういこう)と鋳型(いがた)が発見されました。この鋳造遺構は平安時代に属するもので、全国的にも発見例は多くありません。残念ながら、この鋳造遺構で製作された梵鐘が現存しているのかは分かっていませんが、同時に発見された鋳型類から製品が同定される可能性も考えられます。また、第73次調査地点では、中世前半期の青銅製不明製品が発見されました。形状的には銅板を丸く形成したもので、経筒(きょうづつ)にも類似していますがその用途は判然としていません。
新しい技術や文化が絶えず直接的に流入していた交易都市博多遺跡とやや異なり、箱崎遺跡では穏やかな時の流れのなかで様々な文化を受容していったと考えられます。現在確認されている箱崎遺跡の範囲は九州大学箱崎キャンパスの南端までですが、北側に広がるキャンパス内でも埋蔵文化財が確認されており今後遺跡の範囲はさらに拡大していくようです。九州大学移転に伴う発掘調査も予定されており、今後の調査から目が離せない遺跡でもあります。
西区の下山門(しもやまと)遺跡は第1次調査が昭和47年に行われて以来、43年ぶりに第2次調査が実施されました。遺跡は砂丘の後背湿地に営まれ、弥生時代から中世にかけての遺構や遺物が知られています。第1次・第2次調査ともに土製模造鏡等の祭祀用の資料が出土しており、博多や箱崎遺跡とは異なる海浜部の遺跡の暮らしぶりが分かる成果となっており、今後の調査に期待されます。
上書き都市とは
福岡市博物館では、「ふくおか」の歴史を評するために「上書き都市」(※1)という用語を用いています。これは古い文化層を新しい土層で覆い隠して新しい文化層を形成するという、博多遺跡でよく見られる整地層という土木作業から着想したものです。博多遺跡は場所にもよりますが、基盤層(きばんそう)となる砂丘砂層面から現代の地表面まで5m程度の文化層に覆われています。ある箇所では旧来の施設の痕跡を粘土や土で覆い隠しています。またある箇所では過去の所産を撤去して新しい営みを始めています。いずれの場合も、以前の活動の痕跡は地中に保存されて現代にまで守られ続けているのです。このような行為を約二千年間も繰り返し行った結果が現代の「博多」の姿でもあるわけなのです。
同じように形成された遺跡は、日本各地でも確認されていますが、やはり二千年間絶え間なく続く「上書き」行為は「ふくおか」の博多遺跡が顕著であるようで、それは同時に対外交流の歴史も示している点で特筆すべき特徴にもなっているようです。
福岡市内での発掘調査が続く限り「ふくおか発掘図鑑」は継続していきます。世間を賑わす新発見ではなく、地道な調査の積み重ねを皆様にご披露するために。次回の展示も是非ご覧ください。
(本田浩二郎)