平成28年2月9日(火)~平成28年4月17日(日)
1 黒田斉清像(部分)
はじめに
江戸時代、筑前国(福岡市域を含む現在の福岡県北西部)を治めたのは、福岡藩主黒田家でした。初代藩主・黒田長政(くろだながまさ)から最後の藩主となった黒田長知(なが とも)まで、歴代藩主は12代を数えますが、50年にわたり藩主の座にあった6代藩主・黒田継高(つぐたか)以降は、一橋徳川(ひとつばしとくがわ)家から養子に入った7代藩主黒田治之(はるゆき)が、天明(てんめい)元年(1781)8月に30歳(藩主在任期間12年)、讃岐多度津(さぬきたどつ)藩から養子に入った8代藩主・黒田治高(はるたか)は、同2年8月に29歳(藩主在任期間10ヶ月)と、いずれも若くして亡くなっています。
今回の主役である黒田斉清(なりきよ)は、寛政(かんせい)7年(1795)2月、9代藩主・黒田斉隆(なりたか)の長男として生まれました。しかし、父・斉隆もまた若くして亡くなってしまったため、斉清は非常に幼くして藩主になることになりました。今回の展示では、生まれてすぐに「殿様」となった黒田斉清の治世や学問、人柄など、彼の実像を関連資料から紐解いてみたいと思います。
幼くして藩主になる
寛政7年6月23日、福岡で黒田斉清の父・斉隆が、19歳という若さでなくなりました。藩主在任期間はわずか13年で、福岡藩は治之、治高に続いて年若の藩主を失うことになりました。
当時、斉清は松次郎(まつじろう)と名乗っていましたが、生後わずか4ヶ月であったため、家督の相続が認められるか否かが危ぶまれました。このため家老たちは、しばらくの間は斉隆の死を伏せて、斉隆の実父・徳川治済(はるさだ)(一橋徳川家2代当主、江戸幕府11代将軍・徳川家斉(いえなり)の父)ら親戚筋の諸大名の意向をうかがった上で、9月に松次郎を跡継ぎとすることに決め、幕府に願い出ました。
同10月、この願い出は無事に許され、松次郎は名を長順(ながゆき)と改めて、生後9ヶ月で10代藩主となりました。しかし、当然のことながら藩主としての務めは果たせないため、長崎警備は支藩秋月(あきづき)藩主・黒田長舒(ながのぶ)が代わりに務め、藩政は家老たちが合議をもって行い、決しがたい事項や家老の進退については、徳川治済の指示を受けることになりました。
また、藩主となった長順には教育係たる補佐役が付けられ、藩主としての教育が施されることになりました。寛政11年10月、長順が5歳の時に記された「御幼年中御補佐之次第(ごようねんちゅうごほさのしだい)」には、長順への教育方針として、公正かつ広く豊かで人を思いやる心を持つこと、何事も簡素かつ質素を心掛けることなどが示されており、藩主としての教育がどのような内容であったかがうかがい知られます。
藩主就任後もしばらく福岡で成長した長順は、寛政12年9月、初めて江戸に登り、以降は江戸の福岡藩邸で過ごしました。そして、文化(ぶんか)5年(1808)9月、長順は元服し、将軍徳川家斉の偏諱(へんき)(名前の1字を与えられること)を受けて名前を斉清と改めました。成長した斉清が再び福岡に帰国したのは、文化8年のことでした。