平成28年2月9日(火)~平成28年4月17日(日)
本草学者・黒田斉清
黒田斉清は、生まれながらにして眼病を患っていたと言われますが、幼少期から本草学、とりわけ植物や鳥類を愛し、研究にいそしんだことが知られています。斉清の著作として知られる「本草啓蒙補遺(ほんぞうけいもうほい)」で「予四歳ノ時ヨリ鳥ヲ愛シ、十五歳ノ時ヨリ鷹ヲ以テ鳥ヲ捕ラシム、十七八歳ノ頃ヨリ隼ヲシテ鳥ヲ捕ラシムル」と、鳥類については4歳の頃から興味を持ち、鷹や隼を飼って生態の違いを調べていたことを自ら記しています。また、植物についても、6歳の頃に美濃国不破郡関ヶ原(みののくにふわぐんせきがはら)(現岐阜県)で大葉のカエデを見たことなど、幼い頃から興味を持っていたことがわかる逸話が数多く記されています。
この「本草啓蒙補遺」は、江戸時代後期の著名な本草学者・小野蘭山(おのらんざん)がまとめた本草学の研究書『本草綱目啓蒙(ほんぞうこうもくけいもう)』(享和(きょうわ)3年〈1803〉刊行)の内容を、斉清が自らの知識や研究の成果をもって補足、訂正したものです。蘭山との関わりは本書だけに留まらず、博多呉服町下(ごふくまちしも)(現福岡市博多区)の薬種商で本草学者でもあった内海蘭渓(うつみらんけい)がまとめた植物図譜「本草正画譜(ほんぞうせいがふ)」を斉清が求め、そこに記載された植物の名称を訂正した際に蘭山の助力を得たことが知られています。
江戸時代後期には、斉清と同じく本草学に夢中になる藩主や旗本が数多くいました。彼らの中には、日頃の研究成果を披露したり、情報交換したりするために研究会を立ち上げた人たちもいました。なかでも著名だったのは、富山(とやま)藩10代藩主・前田利保(まえだとしやす)が主宰し、天保(てんぽう)7年(1836)9月に発足した赭鞭会(しゃべんかい)でした。斉清は、利保をはじめとする赭鞭会の会員と親密に交流し、ともに研究活動した記録を「駿遠信濃卉葉鑑(すんえんしなのきようかがみ)」としてまとめています。また、斉清は長崎の出島オランダ商館に来ていたドイツ人医師・シーボルトとも交流していたことが知られています。文政(ぶんせい)11年(1828)3月、シーボルトのもとを訪れた斉清は、植物学や動物学、人類学などについて持論を展開するとともに、シーボルトに意見を求めました。この問答の内容については、随行した福岡藩士・安部龍平(あべりゅうへい)が、自らの意見を加えて編集した「下問雑載(かもんざっさい)」によって知ることができます。
黒田斉清の治世
江戸時代後期、福岡藩では相次いで藩主が亡くなったため、藩政は家老たちの合議により運営されていました。斉清も幼くして藩主となり、眼病も患っていたため、藩政には積極的に関わらず、家老たちに任せきりにしていたと言われます。しかし、斉清の治世下は、文化元年にロシア使節レザノフが長崎に来航するなど、諸外国が盛んに江戸幕府に開国と通商を求めた時代であるとともに、領内では貧富の差が拡大し、度重なる災害による不作、凶作によって領民だけでなく、家臣団や藩財政も困窮の度合いを深めた時代でした。
このような状況に対し斉清は、黒田家の草創期を支えた黒田二十四騎(くろだにじゅうよんき)の伝記編纂や精密な二十四騎図の作成、家臣の系譜調査などを行うことで、黒田家と家臣団のつながりを再確認し結束を図るとともに、自らの海防論を安部龍平に「海寇窃策(かいこうせっさく)」としてまとめさせました。
また、天保4年11月には眼病などを理由に隠居することを決定した上で、困窮する家臣団や領民を救済することを目的に藩政改革を実施することを決めました。この改革で実施された政策は、「御家中并郡町浦御救仕組(ごかちゅうならびにこおりまちうらおすくいしくみ)」と呼ばれ、大量の切手(藩札と同様の紙幣)を発行して家臣団や領民に貸し与え、その切手をもって借銀の整理や質地の受け戻しを行わせるという内容でした。また、景気の浮揚と切手の流通促進のために博多中島町(なかしままち)(現福岡市博多区)などで芝居や相撲の興行を行い、周辺には茶屋など歓楽街ができあがりました。しかし、あまりに大量に発行したため切手の流通が滞り価値が下落してしまったため、改革は失敗に終わってしまいました。しかし、この改革では藩主として積極的に藩政を主導する斉清の1面が垣間見えます。
(髙山英朗)