平成28年8月23日(火)~平成28年10月23日(日)
江戸時代は動物たちが現代よりも人間に身近で、しかも大切な意味を持っていた時代です。この展示では武家(ぶけ)になじみの深い動物である馬と鷹を取り上げ、本館収蔵品のなかから、福岡藩主(ふくおかはんしゅ)や家臣とのかかわりが深い資料を展示し、福岡藩の武家の社会と文化を紹介します。
鷹図(資料38)
1、藩主と馬と馬術
そもそも馬は武士にとり、騎馬での移動はもとより、戦場での兵器であり、生死を共にする仲間でもありました。福岡藩初代藩主の黒田長政(くろだながまさ)は、愛馬に跨った肖像(しょうぞう)が残っていることで有名ですが、彼は馬の生態(せいたい)や医学も学んでいます。
太平(たいへい)の時代となっても、騎馬・乗馬は大名にとってその高い地位を示すもので、馬術はいわば必須(ひっす)の科目でした。7代藩主黒田治高(はるたか)は、藩主になってわずか半年で死去した人物ですが、まだ若いころに盛んに馬術を学んだ免許状(めんきょじょう)などが残されています。
名馬(めいば)は、大名や武家の儀式の主役や、贈答品として、その価値は一層重くなります。ただ太平の時代では戦場での活躍より、毛並(けなみ)や顔つきなど、見た目の美しさが重視されることも起こっています。福岡藩主の身の回りの世話を統括する御納戸頭(おなんどがしら)だった杉山文左衛門(すぎやまぶんざえもん)の日記には、正月の藩主の乗り初めの儀式や秋月藩主が訪ねてきた際の、名馬の披露(ひろう)など様々な記事があります。また福岡城の追廻門(おいまわしもん)外、現在の福岡市美術館近くには、長い馬場(ばば)が設けられ、そこで乗馬の訓練が行われています。
2、馬をめぐる家臣たち
武士の乗馬は藩内での地位と関係が深く、とくに馬乗りの身分である上級武士、家老クラスの武士とって、馬術は必須のものでした。しかし江戸時代の武士は基本的には城下町に屋敷を構えて住んでおり、狭い都市内での馬の飼育はだんだんと難しくなり、また合戦にそなえて大量の馬をそろえる必要もなくなりました。むしろ登城などの移動手段として、おとなしい馬が好まれました。
それでも武士が名馬を持ち、それを乗りこなすことは名誉なことで、福岡藩にも藩主や家臣のための馬術指南役(しなんやく)や、馬の調達(ちょうたつ)や世話、医術を専門とする武士が召(め)し抱(かか)えられました。福岡藩では大坪(おおつぼ)流や大坪本(おおつぼほん)流が主流で、現在それらの門弟・安田(やすだ)家、戸川(とがわ)家、また馬医の田中家などの資料が現存しています。
3、藩主と鷹と鷹狩
鷹は、古代から朝廷や公家、神社などで鷹狩(たかがり)をするために飼育されました。室町・戦国時代には、鷹狩は将軍や大名など高級武家の趣味として広まり、よい鷹は安土・桃山時代の信長(のぶなが)、秀吉(ひでよし)といった天下人が溺愛するものとなりました。
江戸時代初期にも、家康(いえやす)以下の徳川(とくがわ)将軍は鷹狩を好みました。3代家光(いえみつ)の時には戦場の訓練ともみなされ、江戸近郊(きんこう)で盛んにおこなわれました。そして徳川将軍が鷹狩の獲物(えもの)を有名大名に与えることは、大名にとっては名誉なことで、将軍との主従関係は一層固められました。福岡藩2代藩主忠之(ただゆき)が、息子で後の3代光之に出した書状には、鷹の鶴(つる)(将軍が鷹狩でとった鶴)を拝領(はいりょう)した慶びが述べられています。
また各大名も、たとえば福岡藩では領内に鷹狩をする鷹場(たかば)を決めて囲い込み、その中では藩主以外の猟は基本として禁止されました。藩主の一族や重臣たちが、鷹狩をすることは、藩主からの許可や褒美といったわずかな例外のほかはなくなり、鷹と鷹狩は大名が家臣・領民に自分の支配力を示す初段ともなりました。黒田騒動で有名な忠之の時代には、鷹狩や鷹場に関わる命令が息子の光之(みつゆき)や重臣に出されています。一方で藩主も、趣味が高じて鷹狩を頻繁(ひんぱん)に行なったり、禁猟の規制を厳しくすることで、逆に領民に迷惑をかけないよう、自制する必要もありました。