平成28年9月13日(火)~平成28年10月30日(日)
3.初期瓦
(福岡市博多区那珂遺跡群)
九州の初期瓦
日本では6世紀末から7世紀の飛鳥における本格的な仏教寺院の建設にともなって瓦葺(かわらぶき)がひろがってきます。
福岡平野でも同じ頃に瓦が出現します。写真3中央の軒丸瓦は九州最古段階の瓦です。これは九州一の(須恵器(すえき))産地である牛頚窯跡群(うしくびかまあとぐん)(大野城市、太宰府市ほか)で焼かれたものです。文様はなく、作り方なども須恵器と共通しています。瓦専用の工房ではなく、瓦の形状だけをみて、須恵器工人なりに作った製品といえます。続く7世紀前半に蓮華文(れんげもん)の軒丸瓦(写真3左列)など瓦の種類が増え、瓦特有の製作方法である桶巻(おけま)き作りもはじまります。軒丸瓦の文様などに朝鮮半島との関連がうかがえますが、やや稚拙な作りであり、牛頚窯で須恵器とともに焼かれています。まだ瓦専用の工房や生産体制が確立していないと考えられます。
この時代の瓦は主に那珂(なか)遺跡群(福岡市博多区)からみつかっています。ここには大宰府の前身として、大陸との外交や軍事上の重要な拠点があったと考えられています。九州の瓦はそのような施設を緊急で整備するためにはじまっており、飛鳥とは出現背景や生産体制が異なっています。
九州で瓦専用の工房や生産体制ができるのは7世紀後半です。大宰府の整備がはじまる段階で、周辺の山城や寺院などにも葺かれました(写真3右がこの時代の「百済系単弁軒丸瓦(くだらけいたんべんのきまるがわら)」)。
4.大宰府式鬼瓦
(福岡市中央区鴻臚館跡)
老司式と鴻臚館式
大宰府政庁や府の大寺である観世音寺の屋根が瓦葺になるのは8世紀からです。このときの軒瓦が老司(ろうじ)式と鴻臚館(こうろかん)式と呼ばれるタイプで(写真5・6)、奈良の藤原京・平城京の宮殿や寺院に使用された瓦のデザインを元にして作られました。前者は老司瓦窯(福岡市南区)で焼かれて観世音寺に供給され、後者は大宰府政庁とともに筑紫館(つくしのむろつみ)(鴻臚館)の屋根にも葺かれた瓦です。九州特有の大宰府式鬼瓦(だざいふしきおにがわら)(写真4)もこのとき生み出されました。これらの瓦によって、西海道(さいかいどう)の要(かなめ)として大宰府とそれを取り巻く施設の整備が完成します。また、これらの瓦は九州の役所や寺院のそれのモデルにもなりました。
平安時代になると、瓦工房や窯が増え、軒瓦の種類も増えます。その文様や作り方で新羅と共通するものが増えており、新羅の瓦工人がこの時代の九州の瓦生産に大いに関わっていたようです。
福岡市内では斜ヶ浦(ななめがうら)、女原笠掛(みょうばるかさがけ)、元岡(もとおか)(いずれも西区)で瓦窯がみつかっており、鴻臚館などに供給されました。また、生産地や供給先を示す文字がスタンプされた「文字瓦(もじがわら)」が増えます。斜ヶ浦瓦窯で焼かれた「警固(けご)」銘瓦が新宮町相島(あいのしま)沖の海中から引き揚げられており、遠く平安京に運ぶ途中のものであったと考えられています。
(森本幹彦)
5.老司式瓦
(福岡市南区三宅、老司)
6.鴻臚館式瓦
(福岡市中央区鴻臚館跡)
7.「警固」銘瓦
(福岡市西区斜ヶ浦瓦窯)