平成28年9月21日(水)~平成28年11月13日(日)
滑石製弥勒如来像(長崎県壱岐市鉢形嶺)
(奈良国立博物館所蔵)
経塚に込められた想い
経塚造営の始まりは末法思想(まっぽうしそう)の高揚(こうよう)に依(よ)ると言われてきました。末法思想とは、釈迦が入滅してから五百年、千年と時間が経つにつれ、仏の教えだけが残り、教えを実行する者・悟りを得る者が全くいなくなる世に至るという思想です。諸説ありますが、日本では永承(えいしょう)7(1052)年が末法元年とされ、この前後から経塚が造営されるようになったことが文献や考古資料からわかっています。
ではなぜ、地下に経典を埋納するのでしょうか。末法の世が終わると、法滅(ほうめつ)という仏の教えさえなくなる世が始まります。この法滅はとても永い時間続くとされています。しかし、釈迦の入滅後、五十六億七千万年が過ぎると、弥勒菩薩(みろくぼさつ)が第二の釈迦としてこの世に再生し(弥勒下生(みろくげしょう))、竜華樹(りゅうげじゅ)の下で三度にわたって法を説き、衆生を救済すると弥勒下生経に説かれています。このとき、埋めてあった経典が自然と地面から涌きだすのです。これになぞらえ、五十六億七千万年後の世に向けて経典を埋納するようになったと考えられています。そのため、経塚の中に炭を封入したり、経典を粘土板や銅板に刻んだりと、はるか後の世まで残るような工夫を施した経塚も造られるようになったのでしょう。
経塚造営の目的は、このように末法の世でも経典を保持し、弥勒菩薩出世を待つということに始まりました。そのほかにも経典を書写すること自体が功徳(くどく)を積むと考えられており、現世利益(げんせりやく)のために造られたということが願文(がんもん)から読み取れます。また、追善供養(ついぜんくよう)(死者の冥福(めいふく)を祈って行う供養)の願文が記された経筒もあります。
長崎県壱岐市郷ノ浦町鉢形嶺(いきしごうのうらちょうはちがたみね)で出土した、滑石製(かっきせい)の弥勒如来像(資料1)は、如来像自体が経筒である大変珍しい例です。如来像の中をくり抜き、中に経典を収めていたと考えられますが、経典自体は残っていません。右肩から背面腰部にかけて刻まれた、延久(えいきゅう)3(1071)年に始まる願文からは、弥勒下生信仰により造られたことが読み取れます。また、左側面に刻まれた願文からは、あわせて極楽往生(ごくらくおうじょう)を願うものであったことがうかがえます。
そのほかに、大久保塚経筒(資料9)や伝背振山経筒(資料16)には、極楽往生・自他利益(じたりえき)を願うもののほか、両親などの縁者や追善供養を目的とする願文が刻まれたものも見られます。このことから、経塚造営の目的が末法思想に依ったものだけではなかったということがわかります。
経塚を造営する際には、さまざまな人々の手と工程を経て、如法経(にょほうきょう)という一連の手順をふんで書き写した経典を経筒に埋納します。経塚造営という作善(さぜん)は、多くの人の願いを込めた共同作業でもありました。
絵図「遠賀郡白岩山観世音五重石塔内所蔵経筒三之図」
中世以降の経塚
九州での経塚造営は、十二世紀の初めの頃に最も流行します。十二世紀中頃を過ぎると急速に衰退(すいたい)し、中世以降になるとほとんど見られなくなります。鎌倉時代末から江戸時代には、礫石に経文を書き付ける一字一石経塚(いちじいっせききょうづか)が造られるようになっていきます。
はるか未来に向けて埋められた経筒を私たちが現在見ることができるのは、開墾等により偶然に発見されてしまうことがあるからです。江戸時代には全国各地の書物にその発見や伝承について書き留められたものが見られます。福岡では『筑前國続風土記拾遺(ちくぜんのくにしょくふどきしゅうい)』(資料18~21)を編さんした国学者の青柳種信(あおやぎたねのぶ)が、当時発見された経筒について調べた図や記述が残されています。
(福薗美由紀)