平成28年10月25日(火)~平成28年12月18日(日)
四、仏像・肖像
宗七焼には仏像や僧侶の肖像も比較的多く残り、宗七が博多の禅寺などの需要に応(こた)えていた様子が窺われます。
最近まで福岡市の金の隈(かねのくま)地蔵堂に安置されていた薬師如来像(15)は4代宗七が天保10年(1839)に制作した総高80cmに及ぶ大作です。同じく4代の手になる文政6年(1823)の祥勝院(しょうしょういん)の地蔵菩薩像(16)と共にしっかりとした立体感があり、同時期の専門仏師の仏像と比べても見劣りがしません。太宰府市の戒壇院(かいだんいん)の達磨像(17)は天明六年(1786)に三代宗七が制作した簡素な中にも力強い造形力が宿る優品で、福岡市志賀島の荘厳寺(しょうごんじ)にも4代宗七が天保3年(1832)に寄進した小型の達磨像(18)が伝わっています。
僧侶の肖像には博多承天寺(じょうてんじ)の大心円願(だいしんえんがん)(1727~1813)と聖福寺(しょうふくじ)の僊厓(せんがい)(仙厓)義梵(ぎぼん)(1750~1837)の像(19・20)があります。大心像は文政六年(1823)、僊厓像は像主三回忌にあたる天保10年(1839)に4代宗七によって作られました。僊厓は宗七と交流があり、陶芸を習ったことを窺わせる資料も知られています。
五、能面など
宗七焼には能面などを模した飾り面の一群があります。宗七の身上書によれば、天明5年(1785)に福岡藩の御用仏師であった佐田文蔵(さだぶんぞう)から能面の制作を伝授され、また藩から能面を借用したことも見え、藩命により黒田家の能面の写しを作った可能性があります。
能面の「近江女(おうみおんな)」を写したとみられる女面(21)は文化三年(1806)制作の妖艶な作品で、鷲鼻悪尉(わしばなあくじょう)(22)も同じ頃の制作と思われます。これらの面の裏には木彫面と同様の鑿跡(のみあと)が忠実に再現され、「宗七」の印章が認められます。癋見面(べしみめん)(23・24)は上下逆さにしても顔に見えるユーモラスな作品で、浮世絵の「だまし絵」に似ています。大黒面(25)は文鎮(ぶんちん)と思われる小型の面で、比較的安価で販売することを前提に制作されたものでしょう。
なお、これらの面は土型から制作されたことが享和3年(1803)銘の「石王尉(いしおうじょう)」と「黒髭(くろひげ)」の面型(26)からわかります。宗七の工房では面をはじめとする様々な型を蓄え、時々の需要に応えていたと考えられます。
(末吉武史)
6 丁字風炉
12 虎
23 癋見面