平成28年11月15日(火)~平成29年1月22日(日)
12 長崎青貝細工出島図箱
はじめに
この展覧会は、今年創立100周年を迎えた西南学院の大学博物館と共同で開催する展覧会です。展示は、江戸時代の福岡藩における対外交流をテーマに「キリスト教の伝来と禁教政策」「福岡藩と海防」「幕末の福岡藩と開国」「福岡藩と異文化交流」の4章で構成されています。西南学院大学博物館では第1章と第2章を、当館では第三章と第四章を展示します。
天文18年(1549)、イエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルが渡来して以降、キリスト教は有力大名の庇護の下、南蛮貿易と深く結び付きながら、日本各地に急速に広まりました。これを危惧した為政者たちはキリスト教の布教を禁止するとともに、異国との交流を制限していきました。江戸時代において、西洋との交流が許された唯一の場所は長崎・出島でした。幕府は、異国船の来航に備えて福岡藩と佐賀藩に長崎港の警備を命じましたが、福岡藩は、この長崎警備を通して海外からもたらされる文化や情報にいち早く接することができたのです。
今回の展示では、19世紀以降、開国や通商を求め西洋諸国が来航し、対外的緊張が高まった幕末期における福岡藩の動向と、江戸時代に長崎において福岡藩主や藩士たちが触れた海外の文化や、その経験を経て発展した福岡藩の西洋学問について、関連資料を通して紹介します。
6 嘉永六年ロシア軍艦図
幕末の福岡藩と開国
19世紀になると西洋諸国の船が頻繁に日本の沿岸部に姿を見せるようになります。長崎でも文化元年(1804)9月にロシア使節レザノフが来航し、同5年8月にはイギリス軍艦フェートン号がオランダ船と偽り侵入する事件が起こるなど、対外的な緊張が高まり、警備を担当していた福岡・佐賀両藩は、台場増築を含めた警備体制の強化など、対応を迫られました。
嘉永6年(1853)6月、アメリカ東インド艦隊司令官ペリーが浦賀(現神奈川県横須賀市)に来航し、幕府に対して開国と通商の開始を要求しました。この時幕府はアメリカ大統領の国書を受け取ったものの、開国・通商については返答の猶予を求め、ペリーは再来日を予告し、一旦日本を離れました。
その1ヶ月後、長崎にはロシア遣日全権使節プチャーチン率いるロシア極東艦隊が来航しました。プチャーチンもペリーと同じく開国と通商を要求するとともに国境画定交渉も求めました。その後、プチャーチンは、クリミア戦争に参戦したイギリス軍艦が極東のロシア艦隊を攻撃する旨の情報を得たため、10月に長崎を出航し上海に向かいましたが、12月には再び長崎に来航し、幕府のロシア応接掛の筒井政憲・川路聖謨と交渉を行いましたが、条約締結には至りませんでした。この間、福岡藩は長崎港の警備にあたり、数多くの藩士が国元から派遣されました。その中には福岡藩御用絵師・尾形探香や石火矢役・井上信元など絵を能く描く藩士が含まれており、彼らが描いた軍艦やロシア使節の絵画資料が残されています。
この後、幕府は嘉永7年(安政元・1854)3月にアメリカと日米和親条約を締結したのを皮切りにイギリス、ロシア、オランダとも和親条約を締結し、安政5年には右記の4ヶ国にフランスを加えた5ヶ国と修好通商条約を結び、開国へと向かっていきました。