平成28年11月15日(火)~平成29年1月22日(日)
福岡藩と異文化交流
江戸時代を通じて西洋との唯一の窓口であった出島は、寛永11年(1634)から2年の歳月をかけて建設されました。当初はポルトガル人が居住していましたが、同16年にポルトガル人が日本から追放されると、同18年に平戸からオランダ商館が移設されました。以降、出島はオランダ貿易の中心地となり、様々な文化、情報などが出島を通じて日本にもたらされるとともに、日本からも様々な物品が輸出されました。その代表的なものに長崎青貝細工があります。
長崎青貝細工とは、薄くし裏面に彩色をした貝片を用いて螺鈿を施した漆器のことで、19世紀前半から明治時代にかけて数多く作られました。国内向けに作られたと思われる作例もありますが、その多くがオランダ商館からの注文によって輸出のために作られたものでした。
同じく18世紀後半から19世紀初頭にかけて製作された輸出用漆器に蒔絵プラーク・プラケットがあります。これらは西洋の銅版画を金の平蒔絵で写した壁掛のことで、大型のものをプラーク、小型のものをプラケットと言いました。この製作にもオランダ商館周辺の人々が深く関わっていたと考えられ、原図となった銅版画は貿易船によってもたらされ、注文主から職人に渡されたものと思われます。
江戸時代後期、長崎における文化交流を考える上でオランダ商館付きドイツ人医師シーボルトの存在を外す訳にはいきません。シーボルトは、長崎郊外に設けた鳴滝塾(現長崎市鳴滝)で西洋医学や蘭学などを日本各地から集まってきた医師や学者らに講義しました。福岡藩10代藩主・黒田斉清は、鳥類や植物を愛した本草学者として知られていますが、文政11年(1828)7月、斉清は長崎のシーボルトのもとを訪れ面会し、植物学や動物学などについて持論を展開するとともにシーボルトに意見を求め、交流を深めました。
斉清の養嗣子で11代藩主となる黒田長溥もシーボルトと交流がありました。長溥の実父は鹿児島藩8代藩主・島津重豪で、蘭癖大名として知られた実父・重豪と養父・斉清の影響から、幼少期から西洋文化に触れる機会が多く、蘭学や博物学に関心を寄せました。
斉清と長溥は共に自ら植物や鳥類に関する書物を著したり、植物の写生図を制作したりもしました。そのような二人の治世下において、福岡藩では西洋学問を学ぶ者が輩出されました。嘉永2年には長溥の命により河野禎造をはじめとする藩士が長崎に派遣され、西洋医学や化学を学びました。また、安政2年(1855)に幕府が設置した長崎海軍伝習所には佐賀藩に次ぐ多さとなる28名の藩士が派遣され、軍艦の操縦や造船技術だけでなく、様々な西洋学問を学びました。
(髙山英朗)
岡泰正「江戸時代後期における輸出漆器の資料」(『神戸市立博物館研究紀要』第9号、1992年)、日高薫「肖像図蒔絵プラークの原図に関して」(『国立歴史民俗博物館研究報告』第125集、2006年)など