平成29年6月13日(火)~8月20日(日)
空襲に備える
防毒マスクを着用した救助訓練の様子
場所は東公園(現 博多区)
防空に関する訓練や指導で取り扱われたものを紹介します。
《警報》防空警報には、警戒警報・警戒警報解除・空襲警報・空襲警報解除の4種がありました。警報の発令は、その地域の防衛を担当する軍司令官、または軍司令官が指定する者に限られました。警報に応じて適切な対応をとるためには、サイレンやラジオから発される警報を素早く正確に把握する必要がありました。
《灯火管制》灯火管制は、飛来する敵機の目印となるような地上の灯りを制限するものです。防空法では、灯火管制は空襲の危険度に応じて警戒管制と空襲管制に分けられます。警戒管制の前段階として準備管制があり、日没後は商店の看板や電飾の照明を消さなければなりませんでした。訓練では、警戒管制時の減光(照明の明るさを落とす)と空襲管制時の遮光(しゃこう)(光が外に漏れないようにする)を行いました。一般家庭では、照明に黒い布で覆いをかけたり、市販の灯火管制用カバーを購入したりしました。
《防火・消火》「消火」は初期消火の重要性を確認するにとどめ、火災発生時の延焼を防止する「防火」に重点が置かれました。空襲前の天井板の取り外し、火災発生時の隣家への注水が行われました。訓練では、火災に備えて家庭防空組合や隣組でバケツリレーを実践しています。
《防毒》毒ガスは種類によって窒息(ちっそく)、皮膚のただれ、催涙、くしゃみ等の効果を持ちます。第一次世界大戦の際にドイツ軍によって使用されたのを機に、英仏米の連合国側でも使用され、多大な死傷者を出したことが知られていました。大正14年(1925)に国際条約で使用が禁止されていましたが、日本では毒ガス弾が投下されることを想定し、外気を遮断した防毒室の設置や、防毒マスクの着用が呼びかけられました。
福岡大空襲
昭和20年(1945)6月19日、マリアナ諸島を出発したB―29爆撃機の編隊は、宮崎県日向市付近から九州上空に進入しました。長崎県の島原市付近で進路を北にとり、脊振(せふり)山系を越えて午後11時過ぎ福岡市上空に達すると、翌日未明にかけて中心部に大量の焼夷弾を投下しました。これにより、福岡市の中心部の3割以上が焼失、死者数や詳細な被災地域については、現在に至っても未確定のままです。
昭和戦前から戦中期を通して構想され、組織化された防空対策は、大規模空襲の前で有効に機能することはありませんでした。福岡市の中心部は焼け野原のまま終戦を迎えます。戦災からの復興は、戦後の大きな課題となりました。
(野島義敬)