平成29年8月8日(火)~10月15日(日)
「女乗物(おんなのりもの)」とは
1.村梨子地唐草蒔絵女乗物の内部
江戸時代の人々の移動手段の1つに「駕籠(かご)」というものがあります。駕籠は木製もしくは竹製の座席に人が1人座り、その上に渡された3~5メートルほどの長さの棒を2~6名程の人数で担いで運搬する乗り物です。17世紀段階では、駕籠を使えるのは大名(だいみょう)とその一族、医者、高齢者、病人等に制限されていましたが、18世紀以降には規制が解かれ、広く一般の人々も使用することができるようになりました。近代になり人力車や鉄道が登場するまでは実用的な移動手段として日本中で使われていた乗り物といえます。
しかし、当時は身分制社会でしたので、使う人の身分によって駕籠に使用できる材料やデザインが決められていました。一般の人々が使っていたのは木や竹や板等で組んだ座席の周囲にござを巻いた簡素な造りであったのに対して、武士身分の人々が使った駕籠は特に「乗物(のりもの)」と呼ばれ、表面を漆で塗り、金具にも精緻な細工を施した豪華な造りで、一般の人々が使う駕籠と区別されていました。こうした乗物の中でも徳川将軍(とくがわしょうぐん)家や大名家の女性が使ったものが「女乗物」と呼ばれるもので、黒漆塗りに金粉や銀粉で様々な文様や家紋を散らし、内部には源氏物語(げんじものがたり)をモチーフとした装飾画やめでたい花鳥画が描かれ、まさに「動く御殿」ともいえる贅(ぜい)を尽くした仕様となっていました。一方、武家の男性が使った乗物には目立った装飾は無く、竹などを編んだ網代(あじろ)に漆を塗った質実剛健な造りで、女乗物と対照的な仕様でした。これは女乗物が婚礼調度の1つとして家の威勢を示すことが求められたからと考えられています。こうした女乗物は大型過ぎるためか他の大名道具と比べて伝存例が少なく、現在確認されているのは30挺程です。
写真1 1.村梨子地唐草蒔絵女乗物
写真2
写真3
写真4
【写真2】正面上部の丸い金具は福岡藩主黒田家の家紋である「白餅(しろもち)紋」。丸い餅を立体的に表現する。その下の窓は「夢想窓(むそうまど)」といって内側をスライドさせることで開閉が出来る。【写真3】背面上部の金具は「藤巴(ふじどもえ)紋」。同紋は黒田家の替紋の一つ。【写真4】女乗物を右斜め正面から見たところ。屋根は乗り降りする際に頭をぶつけないように跳ね上がる仕組みになっている。