平成29年8月22日(火)~10月22日(日)
江戸時代の大名の婚礼(こんれい)といえば、華やかな衣装や豪華な調度(ちょうど)類が思い浮かびますが、大名家にとっては、その家の浮沈や存続(そんぞく)、名誉に関わるものであり、家臣、領民を巻き込んでの一大事業でした。
本展示は、本館が収蔵してきた福岡藩主黒田(くろだ)家の藩主やその家族の、婚礼に関する古文書や調度類を中心とし、市美術館の黒田資料にある婚礼関係の資料もあわせて展示し、近世大名黒田家の歴史や文化を広く紹介するものです。
1、黒田家の藩主婚礼の移り変わり
藤巴立葵紋蒔絵行器
まず藩主の新夫人にだれを迎えるかは、その大名家と徳川(とくがわ)幕府や他大名とのかかわりを決める大事な問題でした。大名の婚姻(こんいん)は幕府の許可が必要で、初代藩主黒田長政(ながまさ)は、その子忠之に、将軍(しょうぐん)家の縁者(えんじゃ)を夫人に迎えようと画策し、準備に苦労しました。しかし将軍家の血縁者との結婚は、藩の安泰(あんたい)にとって大事なことで、家康(いえやす)の姪にあたる長政夫人の大凉院(だいりょういん)(栄姫)は、のちの黒田騒動では、彼女の一族とともに、わが子2代藩主忠之(ただゆき)の安泰のため大事な役割を果しました。
次の3代光之(みつゆき)の夫人(壱(いち)、宝光院(ほうこういん))は九州小倉(こくら)の小笠原(おがさわら)氏から迎えられます。小笠原氏は、有力譜代(ふだい)大名でしかも夫人の母は家康の孫に当たる女性でした。小笠原氏は光之の嫡子の綱之(つなゆき)と弟の綱政(つなまさ)、長清(ながきよ)を生みます。また長女の筑姫は、時の幕府大老の酒井(さかい)家に嫁ぐなど黒田家の婚姻によるお家安泰策は続きます。綱之は父光之と合わず廃嫡(はいちゃく)されますが、これも親族の小笠原氏などの同意を得て行われ、綱政が4代藩主となりました。
綱政の正室(せいしつ)は柳川(やながわ)藩の立花家から迎えられますが、その夫人も徳川家や伊達(だて)家の血を引く女性で、呂久(ろく)(六)姫といい、のちに心空(しんくう)院と称します。心空院は吉之(よしゆき)、宣政(のぶまさ)の2人の男子を残します。長男吉之は早世し、5代藩主には弟の宣政が就きましたが、病弱のため、長清の子の継高(つぐたか)が藩主世継となり、その夫人には吉之の遺児・幸子(こうこ)が迎えられました。
2、婚礼の儀式と道具・調度
藤巴桐紋露置薄文蒔絵挟箱
(福岡市美術館蔵)
婚礼が行われるのは、大名の場合、自分の江戸藩邸です。それは藩主の正室夫人の場合、必ず江戸に住むように幕府が義務付けていたからです。黒田吉之(よしゆき)の例では、元禄(げんろく)12(1699)年に譜代名門の本多(ほんだ)家との婚礼の許可がおり、6年後の宝永(ほうえい)2年11月に婚礼が、吉之の4月の江戸着府を待って行われました。
当時の大名婚礼は、新興(しんこう)の武家にふさわしい小笠原流等の婚礼儀式に沿って行われます。婚礼は結納(ゆいのう)ののち、数か月後に嫁入りとなり、新嫁の輿を中心とした行列が、婿側の藩邸に行列を連ねて入っていきます。いわゆるお輿入(こしい)れです。そして、玄関では双方の家老(かろう)たちによる貝渡しがあり、終わって輿が渡され、新嫁が奥に案内されて婚礼の式となります。
大名の婚礼道具として1番よく知られているのは、夫婦の固い絆(きずな)を象徴(しょうちょう)する貝合(かいあ)わせの入った貝桶(かいおけ)ですが、ほかに新夫人の鏡台、手箱、書棚といった豪華な調度や、日常の食器にいたる一切の身の回りの道具類があります。とくに式で披露(ひろう)される新嫁側の主な新調度は両家の家紋(かもん)が入り、製作も費用や時間がかかる豪華なものでした。吉之婚礼の道具にも、本多家の立葵(たちあおい)の紋と、黒田家の藤巴(ふじともえ)の紋がともにあしらわれています。
これら婚礼道具は婚約などが決まってから婚礼までの準備の間に整えられました。さらに広い意味では、婚礼の道具とは、豪華な衣装や調度を運んだり保管したりする挟箱(はさみはこ)や長持(ながも)ち類はもちろん、夫人に仕える多くの奥女中(おくじょちゅう)達の日常の道具やお仕着(しき)せの衣類といったものまでも含みます。婚礼の行列では、これらの大量の道具や衣装が、嫁入り先の大名屋敷に、婚礼当日分以外にも数日かけて、しかも数度に分けられて運び込まれたと言われます。
これらの様々な婚礼調度、衣装、その他さまざまな道具は、夫人がなくなった際に一族に形見(かたみ)分けされたり、あるいは、仕えた奥女中や家臣などに遺品として下げ渡されたりしました。