平成29年8月22日(火)~10月22日(日)
3、大名婚礼の舞台と舞台裏
では大名の婚礼儀式や、その後の日々の生活の舞台となる大名屋敷、それらを支えた人々を紹介します。福岡藩の江戸の藩邸には上屋敷(かみやしき)と中(なか)、下(しも)屋敷などがあり、国許(くにもと)から参勤に付き添ってきた藩士や、定府(じょうふ)の藩士が詰めています。福岡藩では、江戸時代中期には、藩主と正室(御前様(おまえさま))は江戸外桜田(さくらだ)の上屋敷(かみやしき)、世子とその夫人(若御前様)は麻布中(あざぶなか)屋敷に、別れて住むことが多かったようです。また江戸には火事や地震など災害が多く、藩邸が火災にあった際、藩主や夫人が避難するための決まりもありました。
さて婚礼後の新居ですが、藩主や世子の婚礼の場合、江戸藩邸の中に、新たな新夫人が住まう、新しい御殿(ごてん)が造られる場合が多かったようです。福岡藩ではこのような奥方の御殿は「御構(おかまえ)」と呼ばれます。この御殿には、夫人やその家族に仕える奥女中達、その下の多くの女性奉公人が詰めています。そのため新夫人の日々の生活費や交際費だけでなく、これら奥女中や奉公人への給金(きゅうきん)や給付する衣装、道具の費用など、財政的な処置も必要でした。また藩邸には「御構」の事務や運営、警備にあたる夫人付の家臣がおり、新規に国許から家臣を呼び寄せられる場合もありました。
4、奥向きの生活と文化
さて展示では福岡市美術館に残されている大名夫人たちの日常生活の道具として、彼女たちが使用した化粧道具、源氏物語(げんじものがたり)などを忍ばせる王朝趣味の遊戯具(ゆうぎぐ)である香(こう)道具を紹介します。いずれも本来は黒田家のどなたかの正室夫人の嫁入り道具だったかもしれませんが、現在では不明です。
正室夫人は御殿の奥方で身分にふさわしい教養と文化の生活を嗜み、親族となった諸大名の奥方と、新しい交際をも始めることになるのです。黒田資料のなどから、それらの親族の交流を示す手紙や遺言などを紹介します。また文化的な遺品として1番多く残されているのは、和歌などの文芸(ぶんげい)作品で、大名や夫人たちの教養や交際に不可欠のものでした。特に6代藩主継高(つぐたか)は本格的に公家(くげ)から学び遺作(いさく)歌集も編まれ、幸子夫人の和歌集も残されています。
黒田家では、7代、9代藩主は将軍家の一族一橋(ひとつばし)家から迎えられ、そのため、10代藩主斉清(なりきよ)は徳川将軍の甥(おい)として、夫人は公家の二条(にじょう)家から迎えられました。また11代藩主は、薩摩(さつま)の島津(しまづ)家から長溥(ながひろ)が斉清の婿養子として迎えられます。さらに幕末、伊勢(いせ)・津(つ)藩の藤堂(とうどう)家から迎えられて最後の藩主となった長知(ながとも)、その夫人豊(とよ)子は、ともに和歌をたしなみました。文久(ぶんきゅう)2(1862)年幕府は参勤交代を緩和し、大名の家族は、国許へ帰国し始めました。豊子とその奥女中たちの筑前までの道中の記録が残されています。
(又野誠)