平成29年8月22日(火)~10月15日(日)
1. 闇のなか
博多明治風俗図 軒灯の火とぼし
かつて博多に
雨の降る日と 日の暮れがたは
家にいきたい 帰りたい
という子守唄がありました。あたりを包み込むような仄(ほの)暗さのなかで、子守奉公(ほうこう)に出た少女にふとわき上がる心細さが伝わってくるようです。
民俗学者の柳田国男(やなぎたくにお)はその著書(『火の昔』)のなかで別の子守唄を紹介しています。
他人おそろし やみ夜はこわい
親と月夜は いつもよい
暗さこそは夜のもっとも大きな特徴であり、私たちを不安に誘う要因でもありました。ましてそれが漆黒(しっこく)の闇ともなればなおさらです。真の闇のなかでは、周囲のようすが全く見えなくなるだけでなく、まるで身体が闇に溶け、どこまでが自分でどこからが自分でないのかわからなくなるような気がして、とても不安になるものです。
哲学者の今道友信(いまみちとものぶ)は「暗黒の夜の認識の典型は、自己を取り巻く世界は円であり、その中心に自己はいて、前後左右とも見えない。ただ、前後左右からある気配(けはい)が聴こえてくる、それを察知するという状態である」(『自然哲学序説』)と言います。
2. 炎と電気
灯下百鬼行列戯画
人が生みだした明かりのはじめは、焚(た)き火であったと考えてよいでしょう。各地に伝わる祭りや儀式で、今でも松明(たいまつ)や篝火(かがりび)が使われているのは、古い灯火のありかたを残し伝えているからに他なりません。
古い民家の囲炉裏(いろり)もまた、家のなかの焚き火でした。囲炉裏には明かりをとり、暖をとり、煮炊きをするという役目がありました。屋根や壁といった内外を区切る構造物とその内側で燃える火が、私たちの住居のもっとも基本的な構成要素なのです。
動植物由来の灯油や蝋燭(ろうそく)を用いる照明専用の器具が一般に普及したのは江戸時代のことでした。灯油の原料としての菜種(なたね)、蝋燭の原料である木蝋(もくろう)をとるための櫨(はぜ)の実の生産が奨励され、そうした灯火の燃料に庶民層でも手が届くようになったのです。ちなみに福岡藩でもそれらは盛んに栽培され、とくに木蝋(生蝋(きろう))は全国でも屈指の生産量を誇る特産品とされていました。
菜種油の明かりはおもに、油皿や秉燭(ひょうそく)と呼ばれる器に注いだ油に灯心を浸し、それに火をとすものでした。光源を高く掲げるための灯台や、周囲に紙をめぐらせて風で火が消えるのを防ぐ行灯(あんどん)は、ここから発展した明かりの道具です。
どこかぼんやりとした菜種油の火にくらべ、蝋燭の光は強くはっきりしています。振動に強い固形の燃料ということもあって、蝋燭を使った提灯(ちょうちん)や手燭(てしょく)は人々の夜の移動に重宝されました。この変化は人々の暗闇への向き合い方に少なからぬ影響を及ぼしたことでしょう。
幕末から明治にかけて、カンテラやランプなど化石燃料を用いる灯火具が移入され、旧来の道具はすっかり主役の座を奪われてしまいます。そしてとどめを刺したのが電灯の登場でした。
「灯下百鬼行列戯画(とうかひゃっきぎょうれつぎが)」と題された絵には、妖怪の姿をした多くの古い灯火具が描かれています。これは「百鬼夜行絵巻(ひゃっきやぎょうえまき)」の最後、朝日がのぼり妖怪たちが一目散に逃げ去る場面のパロディーなのですが、そこには太陽の代わりに光り輝く電灯が描かれています。そのあまりの明るさに逃げ惑う古器具たち、闇を追い払うかのような電気の力、まさに夜の大変革でした。