平成29年10月17日(火)~12月17日(日)
はじめに
高畑遺跡(博多区)出土木簡
「もっかん」と聞いて皆さんは何を思い浮かべるでしょうか。
墨で文字が書かれた木片のことを「木簡(もっかん)」といいます。歴史の教科書に出てくる木簡は、1000年ほどの時を経て、水分の多い土の中から見つかったものです。出土文字資料として、考古学と文献史学をつなげ、新たな歴史の展望を示してくれます。
福岡市内ではこれまでに10箇所以上の遺跡で、合わせて100点を超える木簡が発掘されました。木簡が見つかるということ、それ自体が、そこでの文字文化の受容を示しています。それでは、木簡からどのようにして情報を引き出していくのか、発見後の様子をたどりながら色々な角度で木簡を見ていきたいと思います。
一 木簡の発見
遺跡から木片が見つかっても、それが直ちに木簡の発見とはなりません。長い間地中にあった木製品にとって紫外線や酸化、乾燥は大敵です。文字が読めそうな場合でも、まずは速やかに水に漬けて屋内へ運びます。そして洗浄作業で土を落とし、ほとんどはこの段階で墨の跡の有無を確認することになります。この時、泥の中に紛れた薄い木の削屑から鮮やかに墨書文字が現れることもあります。これも立派な木簡です。
汚れか文字か、より鮮明に見たいときに活躍するのが赤外線撮影です。赤外線を使うことで、木に染みこんだ墨の黒を際立たせて見ることができます。博多遺跡群(博多区)で出土した、全面に薄く黒漆がかけられた桧の桶は、赤外線撮影をした際に漆の下にも文字が書かれていることが確認されました。細かな調査を重ねることで、木簡は見つかっていきます。
二 文字からみる木簡の役割
金武青木遺跡(西区)出土「物部嶋足」木簡
(画像3点は『金武青木』報告書より)
展示室に並ぶ木簡を見ると、文字がはっきりと読めないものが非常に多いことがわかります。出土後、劣化が進み見えにくくなっていく文字は、初期の記録・調査が肝要です。発掘担当者だけではなく、他の分野の研究者と協力をして釈読(しゃくどく)(文字読み)をしていきます。今回の展示でも出土後すぐの赤外線写真や実測図、そして釈文(しゃくもん)を参考にして、それぞれ書かれた文字を紹介しています。
さて、木簡はその記載内容によって、大きく文書(もんじょ)木簡、付札(つけふだ)木簡、その他に分けることができます。
元岡・桑原遺跡群(西区)で見つかった「里長」の文字が見える木簡は、文書木簡です。8世紀の国郡里制において、郡の役所が里の長に出したものだと考えられます。このように文書木簡は、役人の勤務評定や、呼び出しなど、主に役所で用いられました。紙が普及する前の行政文書として、古代の特徴的な文書のあり方といえます。
付札木簡は物を分類・整理するためのものです。運搬される物資に付けた荷札、巻物の見出しであった題簽軸(だいせんじく)など、国名や品目、日付が書かれたものが福岡市内から見つかっています。
その他に分類される木簡の役割は様々です。呪符(じゅふ)木簡は雨乞(あまごい)などの信仰・呪術行為で使われました。習書(しゅうしょ)木簡は、字の練習がされたものです。そこには同じ文字が繰り返し書かれたり、脈絡なく文字が続いたりしています。表面を刀子(とうす)(小刀)で削ることで繰り返し使用ができた木の札は、筆の運びを練習するにはうってつけでした。