平成29年10月17日(火)~12月17日(日)
三 形からみる木簡
元暦元年乙訓郡
往生院文書
(題簽軸部分)
木簡の形を観察してみると、その使われ方を推測することができます。
数多く発見される木簡の形に、短冊型で上下に切り込みを入れたり、先を尖らせたりしているものがあります。これは、物にひもでくくりつけたり、差し立てたりするための形で、荷札木簡によく見られます。題簽軸木簡と呼ばれるものの形も特徴的で、巻物の軸に文字を書き込めるようになっています。香椎B遺跡(東区)で発見されたものは年号が書かれた部分のみが残っていますが、それには軸が続いていたと考えられます。
更に木簡に顔を近づけて、その加工方法に注目してみましょう。下月隈C遺跡(博多区)から見つかった「皇后宮職」と書かれた文書木簡の下端部は、表裏両面から刃を入れて丁寧に整形されたことがわかります。
香椎B遺跡(東区)出土
「寛治七年」木簡(赤外線写真)
(画像は『香椎B遺跡』-図版編-報告書より)
四 形からみる木簡のその後
下月隈C遺跡(博多区)出土「皇后宮職」木簡下端部
文書や荷札としてその役目を果たした木簡は、ゴミとして捨てられました。元岡・桑原遺跡群(西区)の「建部根足」木簡は下部に内容が続いていたと思われますが、途中で斜めに切れています。廃棄の際に意図的に折っていたようです。荷札木簡は、そのままの形で見つかることが多く、食料などの物資が最終的に消費される場所で、荷解きをされ、捨てられていたと考えられます。
再利用ののちに廃棄されるものもあります。先だけが黒く焦げている木簡は、燃料として再利用された可能性があります。鴻臚館跡(中央区)ではトイレ遺構から十数点の木簡が見つかりました。一緒に多く出土したのは、今のトイレットペーパーにあたる、木を細長く整形した籌木と呼ばれるものです。使用済みの木簡もトイレで使用し、廃棄されたのかもしれません。
こうした木片を丸木からどのように切り出したのか、その大きさに規格はあったのか、そしてどのように廃棄されていったのか、発掘された木簡の形を見ると、その木簡がたどった道のりに迫ることができます。
おわりに
発掘された木簡は、一通りの調査を終えると保存処理を行います。水漬け状態では定期的な水替えが必要ですし、展示や長期保存に適しません。福岡市埋蔵文化財センターでは木簡それぞれの状態に適した科学的処置を施し、木材として安定した状態にしています。
1961年、40点の木簡が奈良の平城宮跡で見つかり、古代史の史料として注目されました。それから半世紀、その木簡を含む「平城宮跡出土木簡」が今年、木簡として初めて国宝に指定されました。また近年、国内で出土する木簡は文字資料として一元的なデータベース化が進み、より複合的な研究の進展、新たな発見が期待されます。
土の中から見つかった木簡は、様々な過程を経て、文化財として広く公開され、また歴史資料としてこれからも役立っていくことになります。日本各地で発掘・報告がされる木簡から今後も目が離せません。
(佐藤祐花)