平成29年10月24日(火)~12月24日(日)
図1 三つ鱗紋入り土製円盤
(史料2)
1333年、鎌倉幕府(かまくらばくふ)が滅び、後醍醐天皇(ごだいごてんのう)による建武(けんむ)の新政(しんせい)が行われます。しかし、わずか2年で建武政権はついえ、京都と吉野(よしの)(奈良県)に二つの朝廷(ちょうてい)が並び立ち、全国各地で両勢力が合戦(かっせん)を繰(く)り広げる南北朝動乱(なんぼくちょうどうらん)の時代(1335~1392)を迎えました。
本展覧会では、当館が所蔵する古文書(こもんじょ)等を通して、南北朝動乱の時代における博多(はかた)およびその周辺の歴史的状況を紹介します。
1 鎮西探題の滅亡
図2 短刀 銘「国吉」
(史料3)
博多には、鎌倉時代後期、九州統治の機関として鎮西探題(ちんぜいたんだい)が置かれました。弘安(こうあん)の役(えき)後、モンゴル軍の3度目の襲来に備えるため、九州における軍事を統轄し、あわせて九州の土地財産に関する訴訟(そしょう)を審理し確定判決を行う機関です。
鎌倉幕府は、新田義貞(にったよしさだ)等の軍勢に攻められ、1333年5月に滅びましたが、九州における倒幕の動きは、3月13日に起こります。後醍醐天皇の倒幕の呼びかけに応じた肥後国(ひごのくに)(熊本県)の菊池武時(きくちたけとき)が鎮西探題を襲撃します。この時の菊池氏の挙兵は失敗しますが、幕府が滅んだ3日後の5月25日、大宰少弐貞経(だざいしょうにさだつね)・大友貞宗(おおどもさだむね)・島津貞久(しまづさだひさ)等が挙兵し、鎮西探題に攻め寄せ探題北条英時(ほうじょうひでとき)を滅ぼしました。
鎮西探題は櫛田神社(くしだじんじゃ)と祇園町(ぎおんまち)交差点(福岡市博多区)との中間あたりにあったと推定され、推定地からは北条氏の家紋(かもん)である三(み)つ鱗(うろこ)紋入りの土製円盤(図1)が見つかっています。探題設置により博多の政治都市化がすすみ、この頃から「筑前博多談議所国吉法師西蓮(ちくぜんはかただんぎしょくによしほっしさいれん)」と名乗る刀工が博多で作刀を行います。国吉(図2)の系統から「左(さ)」と称する名匠(めいしょう)が登場し、左文字(さもじ)と呼ばれる一派を興して南北朝時代に活躍しました。
2 建武政権の崩壊、南北朝の対立へ
後醍醐天皇による建武政権は、足利尊氏(あしかがたかうじ)の離脱(りだつ)によりわずか2年で瓦解(がかい)します。尊氏は一旦没落し、九州まで落ち延びますが、1336年3月、多々良浜(たたらはま)(福岡市東区)の戦いで菊池氏に勝利した後、京都を掌握し、同年11月には「建武式目(しきもく)」を定め、幕府の成立を宣言します。また、尊氏は上洛(じょうらく)に際し、九州の守りとして家臣(かしん)の一色範氏(いっしきのりうじ)等を残しました。一色範氏・直氏(なおうじ)父子は九州探題(きゅうしゅうたんだい)として幕府方の武士を指揮しました。
一方、京都を脱出した後醍醐天皇は吉野に逃れ、ここに吉野の朝廷(南朝)と京都の朝廷(北朝)が対立する状況となります。二つの勢力の対立は全国に波及しました。とくに九州では肥後国の菊池氏を中心とする南朝の支持勢力が盛んで、後醍醐天皇の皇子懐良親王(かねよししんのう)を擁(よう)する南朝方勢力と、幕府方との間で激戦が繰り広げられました。