平成29年11月7日(火)~平成30年1月8日(月・祝)
安土(あづち)・桃山(ももやま)から、江戸時代の初めまでの天下統一の時代、初代福岡藩主黒田(くろだ)長政(ながまさ)は数々の合戦に参加し、一躍(いちやく)筑(ちく)前(ぜん)一国の大名となりました。この時代から鉄砲は、大名黒田家にとって重要な武器でした。本展示では火縄(ひなわ)銃(じゅう)から、260年後の幕末の洋式(ようしき)銃(じゅう)まで、福岡藩の歴史と文化にとって果たした役割を、本館収蔵資料や市美術館の黒田資料で紹介します。
1、天下統一と黒田家の鉄砲
関ヶ原合戦の黒田家鉄砲隊(参考写真)
若い日の黒田長政は、鉄砲は合戦で特に防御(ぼうぎょ)での重要な武器と述べたといわれます。朝鮮出兵の終わりに長政が救援した蔚(うる)山(さん)城攻防戦では、鉄砲でようやく撤退(てったい)ができたほどです。さらに慶長(けいちょう)5(1600)年の関ヶ原合戦で、東軍に味方した黒田長政は、西軍石田三(いしだみつ)成(なり)の陣を攻撃しました。長政は鉄砲組から選抜した50人の鉄砲(てっぽう)上手(じょうず)を菅(かん)和泉(いずみ)に指揮させ、石田家の有力部将の島(しま)左近(さこん)隊を撃退しました。後に黒田二十四騎(くろだにじゅうよんき)と呼ばれた有力家臣にも、鉄砲組頭(かしら)の益田(ますだ)与(よ)助(すけ)、鉄砲組大頭(おおかしら)の野口(のぐち)佐(さ)助(すけ)がいます。
慶長20年の大坂(おおさか)の冬の陣では、長政は息子忠之(ただゆき)の出陣に際して、鉄砲(てっぽう)衆(しゅう)のい組ごとに服装・出で立ちを統一し、順番に先陣(せんじん)を務めることを命じ、弾薬(だんやく)の補給(ほきゅう)や城攻め用の大筒(おおづつ)の使用も指示しました。当時の鉄砲衆は桃形兜に揃いの道服(どうふく)で、鉄砲の購入手当を支給されるなど優遇され、長政死去の元和9年には約500人の鉄砲衆がいました。
2、長政愛用の火縄銃たち
当時の鉄砲は、砲術(ほうじゅつ)に各流派(りゅうは)が生まれ名人が登場し、長政も稲富一夢(いなとみいちむ)に射撃技術を学び免状を得ています。日本の火縄銃は、西洋の同時代の銃に比べて命中率(めいちゅうりつ)もよく、武士の狩猟(しゅりょう)にも使われました。長政も鉄砲衆を供に猟にでかけ、愛(あい)銃(じゅう)「次郎坊(じろうぼう)」を家臣の黒田(くろだ)一成(かずなり)に持たせ、自分は「太郎坊(たろうぼう)」を持ち、2人で大猪(いのしし)をしとめたと「黒田家(くろだけ)御重宝(おんじゅうほう)故実(こじつ)」に記されています。
長政の愛用の銃はこの2挺だけでなく、江戸時代の中ごろまで福岡城内の保管庫には数多くの愛用火縄銃が残されていました。これらは長政好みの銘や象嵌などが彫られています。なお当時の武士が、自分用に持った鉄砲は「持(もち)筒(づつ)」といわれ、自分の従者にも何挺かの鉄砲を持たせて合戦に参加しましたが、これら火縄銃も威力(いりょく)の大きい大口径(こうけい)から、命中率のたかい小口径まで区々です