展示・企画展示室2

No.504

企画展示室2

市美×市博 黒田資料名品展Ⅴ 黒田家と鉄砲

平成29年11月7日(火)~平成30年1月8日(月・祝)

3、鎖国・長崎警備と黒田家の砲術

大坂の陣後、黒田家で鉄砲を使った合戦は、寛永(かんえい)14(1637)年から起きた天草(あまくさ)・島原(しまばら)一揆の際に、一揆勢(いっきぜい)が立て籠(こも)った原(はら)城をめぐる攻囲(こうい)戦です。黒田忠之(ただゆき)の福岡藩や支藩の秋月藩(あきづきはん)、東蓮寺(とうれんじ)藩など約2万の黒田勢は、本藩直属だけで1100挺の鉄砲を用意し、それらは藩主の近くに控え鉄砲で護衛する「御側(おそば)筒(づつ)」と、鉄砲組に所属する足軽(あしがる)などに分かれています。

一揆勢も多数の鉄砲を持ち、激しい銃撃で12月には幕府の上使(じょうし)・板倉(いたくら)氏が、また翌年明けの夜襲では黒田家の家老が戦死するほどでした。2月下旬の総攻撃で黒田家の各家臣は本丸に乗り込んで従者とともに鉄砲を撃ち、到着(とうちゃく)した藩の鉄砲衆も指揮して戦っています。

この大一揆のち、幕府は鎖国(さこく)政策をすすめ、寛永18年福岡藩は幕府(ばくふ)直轄(ちょっかつ)の長崎(ながさき)港の警備を命じられます。警備はポルトガル、スペインの大型の異国(いこく)船(せん)相手のため、福岡藩では当時は石火(いしび)矢(や)とよばれた大砲と砲台(ほうだい)が必要となりました。しかし近接戦(きんせつせん)のために火縄銃や、口径の大きく持ち運びのできる大筒(おおつつ)(大鉄砲)も必要でした。そして正保(しょうほう)4(1647)年、長崎港にポルトガル船が通(つう)商(しょう)再開(さいかい)を求めて来航した際、幕命に抵抗した場合に備え、黒田忠之(ただゆき)は、石火矢と、鉄砲・大筒での停泊(ていはく)船(せん)への奇襲(きしゅう)を計画しています。長崎警備を通じて福岡藩の軍備も整えられ、鉄砲大頭は4人(4組)で藩の鉄砲総数は家臣分も合わせて約1700挺に及びました。翌慶安(けいあん)元年の藩主の命令では、長崎港に国交のない異国船が来航した時は、鉄砲大頭2組が出動し、異変があった際には留守の鉄砲を除いて総出動すること、また組の鉄砲の口径も家臣の持つ鉄砲も含めて統一すること、が指示されています。

享保(きょうほう)2(1717)年から玄界灘(げんかいなだ)で清商船と日本商人の密貿易(みつぼうえき)取り締まりが行われ、福岡藩は砲術役(ほうじゅつやく)を乗せた中型の小早船(こばやぶね)6隻からなる鉄砲船を主力とした軍船団をさし向けます。大きい石火矢を積めない小早船の主砲に使われたのが、砲術役が船の上で操作(そうさ)し、熱い鉄玉で相手を焼き払う「大筒」で、現在伝わる抱(かか)え大筒にもよく似ています。

16. 火縄銃(太郎坊)「烏天狗図金象嵌」16. 火縄銃(太郎坊)「烏天狗図金象嵌」
4、天下泰平の時代の砲術修行

この時代以後、福岡藩でも鉄砲の使われる事件はほとんどなく無事な時代が過ぎ、全国的に砲術は実戦より、上、中級武士の嗜(たしな)みとして習得(しゅうとく)されており、砲術の演技(えんぎ)的な流派が広まったのもこのころです。ただ福岡藩では長崎警備の関係で、砲術の実地(じっち)訓練(くんれん)は盛んで、箱崎(はこざき)(現市内東区)などで行われ、訓練では足軽は陣笠、武士は火事(かじ)装束(しょうぞく)で鉄砲の発射訓練を行いました。また正月には藩主の前で鉄砲撃ち始めの儀式がありました。なお抱え大筒は、長崎の町の唐館(とうかん)騒動(そうどう)の取り締まりで、威嚇(いかく)のために使用されています。

5、西洋兵学の流入と幕末兵制改革

しかし18世紀の後半から北のロシア、極東(きょくとう)に来たイギリスが日本にも接近を始めます。しかも西洋諸国の火器を中心とした軍事技術の発達は目覚(めざ)ましく、通商(つうしょう)国(こく)オランダを通じて、日本にもその情報は伝わりますが、長崎の町人・高島秋帆は、オランダの兵学を学び塾を開きますが普及はしません。しかし天保4年に11代藩主となった黒田(くろだ)長溥(ながひろ)は豊富な西洋軍事学の知識を持ち、弘化年間から長崎台場の増強を計画し始め、嘉永5(1852)年以後、西洋の小銃製造技術(ぎじゅつ)習得(しゅうとく)のために技術者を長崎に派遣し、前装式ゲベール銃などを購入します。

長溥(ながひろ)は安政2(1855)年から本格的な洋式銃を装備する兵制の改革を計画しますが、藩の財政負担や保守的(ほしゅてき)な意識から反対する家臣も多く、一部の藩士による洋式兵術訓練で止まります。

しかし文(ぶん)久(きゅう)3年(1863)には、命中(めいちゅう)精度(せいど)の高い前装式施条(せんじょう)式銃数千丁、新式の後装(こうそう)式騎銃の購入を始めました。そして慶応元(1865)年、福岡藩でも中級武士を銃士(じゅうし)、御側筒や足軽の銃手(じゅうしゅ)とし、鉄砲大組頭(おおぐみかしら)を隊長とした、大隊小隊を編成する兵制改革(かいかく)を断行します。藩の兵士は洋式銃の扱いに便利な帽子や笠をかぶり、明治維新にかけて洋式の服装で国内を転戦しました。
(又野誠)

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