平成29年12月26日(火)~平成30年2月25日(日)
図1 束帯天神像(部分)
はじめに
平安時代中期の政治家・学者であった菅原道真(すがわらのみちざね)(八四五~九〇三)は、藤原氏との政争により九州の大宰府に左遷され非業の最期を遂げた人物としてよく知られています。道真の死後その怨霊は恐ろしい祟(たた)りをもたらす存在として人々に畏れられますが、やがて学問・文芸の神として敬われ、各地に天満宮が造られていきます。また、その生涯や神になったいきさつを伝える天神縁起絵(てんじんえんぎえ)や神像としての肖像画も数多く制作されました。
福岡には道真が大宰府に左遷される途中で自身の姿を写した「水鏡(すいきょう)(みずかがみ)」の伝説を伝える水鏡天満宮(すいきょうてんまんぐう)があり、繁華街「天神(てんじん)」の地名の由来にもなっています。本展示では福岡ゆかりの天神信仰に注目し、今回初公開となる鳥飼八幡宮(とりかいはちまんぐう)所蔵の天神縁起絵巻など、天神菅原道真にまつわる作品を紹介します。
天神縁起絵
菅原道真の生涯とその怨霊による祟り、京都の北野社(現・北野天満宮)の創建と霊験などの物語を描いた絵巻や掛軸などを天神縁起絵と呼びます。現存する最古の作品は十三世紀前半に成立したとみられる北野天満宮の国宝『北野天神縁起絵巻(きたのてんじんえんぎえまき)承久本(じょうきゅうぼん)』ですが、その原型となる文章は既に平安時代末頃には成立していたと考えられています。
天神縁起絵は鎌倉時代以降数多く制作され、主に絵巻として各地の天満宮に奉納されるようになります。しかし、その詞書(ことばがき)や構成は必ずしも同じではなく、序文の書き出しの違いから甲類(こうるい)(「王城鎮護(おうじょうちんご)の神々多くましませど」)・乙類(おつるい)(「日本我朝(にほんわがちょう)は神明(しんめい)の御(おん)めぐみことにさかりなり」)・丙類(へいるい)(「漢家本朝霊験不思議一(かんけほんちょうれいげんふしぎひとつ)にあらざるに」)の三つに分類され、概ね甲・乙・丙の順で成立したと考えられています。
図2 天満宮御縁起(清涼殿落雷)
鳥飼八幡宮本 天神縁起絵巻
最近の調査で発見され、今回初公開となる鳥飼八幡宮(福岡市中央区)の『天満宮御縁起(てんまんぐうごえんぎ)』(図2)は、上・下二巻からなる天神縁起絵巻です。奥書(おくがき)から正徳(しょうとく)二年(一七一二)に鳥飼八幡宮神宮寺(じんぐうじ)の住職良海(りょうかい)が八幡宮境内に天満宮を新造した際に発願(ほつがん)したこと、詞書は福岡藩士の鎌田(かまだ)昌遙(法名順静(じゅんせい))、絵は狩野(かのう)(和田)一信(かずのぶ)が担当したこと、また制作途中で中断時期があったらしく、享保十七年(一七三二)に富田直寿という人物が完成させたことなどがわかります。
絵師の狩野一信(かのうかずのぶ)は福岡藩四代藩主黒田綱政(くろだつなまさ)に召し抱えられた狩野昌運(かのうしょううん)の嫡男として知られています。昌運は幕府御用絵師であった狩野安信(かのうやすのぶ)に学んだ狩野派の重鎮で、最初は一信も江戸で父に従って活動していました。しかし、昌運が没した元禄(げんろく)十五年(一七〇二)以降は筑前に下り、名を父の旧姓である和田に改めて絵を描くことはほとんどなくなったと伝えられています。本絵巻はそうした一信の数少ない遺作として注目されます。
ところで、本絵巻は天神縁起絵巻としては詞書から乙類に分類されますが、乙類の作例で、文亀(ぶんき)三年(一五〇三)に宮廷絵師の土佐光信(とさみつのぶ)が描いた北野天満宮の『光信本(みつのぶぼん)』と物語の構成や絵が基本的に一致します。このことから一信が身近にあった『光信本』系統の作品を写した可能性が考えられますが、太宰府天満宮には元和(げんな)五年(一六一九)に初代藩主黒田長政(くろだながまさ)の求めによって北野社の『光信本』をもとに制作された『元和本(げんなぼん)』が伝わっていることが注目されます。
図3 南無天満大自在天神御縁起(部分)
岡田神社(北九州市八幡西区)の『南無天満大自在天神御縁起(なむてんまだいじざいてんじんごえんぎ)』(図3)も最近新たに確認された一巻本の天神縁起絵巻で、本来は現在岡田神社の境内摂社(けいだいせっしゃ)となっている湊天満宮(みなとてんまんぐう)に奉納されたと考えられるものです。内容は道真の生涯から死後の祟り、北野社の創立という通常の 流れに沿って進みますが、詞書は「むかし延喜(えんぎ)の御宇(ぎょう)の時代に」から始まることや、十八首に及ぶ和歌が収められるなど甲・乙・丙類いずれにも属さない個性的な内容を持っています。絵も室町時代以降に制作された「奈良絵本(ならえほん)」に通じる素朴な味わいのある表現に特徴があり、中でも道真が雷神(らいじん)を従えて竹の上に坐り、法性坊(ほっしょうぼう)(道真が生前師と仰いだ天台宗延暦寺(えんりょくじ)の僧)と対話する珍しい場面が含まれているのが注目されます。