平成29年12月26日(火)~平成30年2月25日(日)
「ご当地縁起」と福岡
天神縁起絵には岡田神社本に見られるように様々なバリエーションがあり、また江戸時代以降は地域固有の伝承などを盛り込んだ、いわゆる「ご当地縁起(とうちえんぎ)」が各地で成立しました。
道真終焉(しゅうえん)の地である太宰府市や福岡市周辺にはそうした伝承が数多く伝えられています。福岡市の繁華街天神にある水鏡天満宮にまつわる「水鏡天神(すいきょうてんじん)(容見天神(すがたみてんじん))」もそのひとつで、同宮の『水鏡天神御縁起(すいきょうてんじんごえんぎ)』には道真が博多から大宰府に向かう途中、川に映った自身のやつれた姿を見て「死時有川(しじうかわ)(四十川)」と言ったことから後にそこに天満宮を建てたという創建の由来が語られています。水鏡天満宮は当初、那珂郡庄村(なかぐんしょうむら)(現・福岡市中央区今泉(いまいずみ))にありましたが、江戸時代初期に現在の地に移転し、「天神」の地名の由来となりました。
なお、江戸時代には一般民衆の天神信仰や出版文化の隆盛を背景に『天神記図会(てんじんきずえ)』のような平易な文章による絵入り冊子本の天神縁起や、道真をモデルにした歌舞伎の演目「菅原伝授手習鑑(すがわらでんじゅてならいかがみ)」を描いた錦絵が多数出版されています。
図4 渡唐天神立像
天神の姿
菅原道真を祀る天満宮には神像としての画像や木彫像が安置されています。その表現は多様ですが、道真が平安貴族であったことから笏(しゃく)を持つ束帯(そくたい)姿とするのが一般的で、怒りを含む表情にあらわされることも少なくありません。
水鏡天満宮の『束帯天神像(そくたいてんじんぞう)』(図1)も「怒(いか)り天神(てんじん)」の一例で、江戸中期の絵師狩野典信(かのうみちのぶ)が描いたものです。その姿は老人のように白髪にあらわされ、よく見ると綱を巻いたような円形の敷物に坐っています。これは道真が九州に流される際、上陸地で休息する場所がないので船の纜(ともづな)を巻いた敷物に坐ったという説話にもとづく画像で、「綱敷天神(つなしきてんじん)」とも呼ばれています。
一方、福岡藩主黒田家に伝来した『束帯天神像(そくたいてんじんぞう)』は穏やかな表情で倚子に腰掛ける画像で、道真が生きた平安中期以前の束帯形式である「萎装束(なえしょうぞく)」であらわされるなど、時代考証が加えられているのが注目されます。江戸中期の有職故実(ゆうそくこじつ)(朝廷や武家の伝統的なしきたりや風俗)の研究家であった伊勢貞丈(いせさだたけ)は『菅像弁(かんぞうべん)』をあらわし、天神像の装束の違いなどを細かく論じています。
ところで、こうした束帯姿の天神像とは別に、室町時代の禅宗寺院を舞台に登場した異色の天神像も存在します。ある夜、禅僧の夢にあらわれた天神が中国・径山(きんざん)の仏鑑禅師(ぶかんぜんじ)(無準師範(ぶしゅんしばん))に参禅して法衣(ほうえ)を授けられたという「渡唐天神(ととうてんじん)」の物語にもとづく天神像で、中国風の衣を着けて頭巾(ずきん)を被り、手に梅の枝を持って立つ姿にあらわされています。
水鏡天満宮の『渡唐天神立像(ととうてんじんりゅうぞう)』(図4)は珍しい彫刻の作品で、台座には享保(きょうほ)元年(一七一六)に京都仏師の正慶(しょうけい)が太宰府の戒壇院(かいだんいん)にて「飛梅木(とびうめのき)」で彫ったことが記されています。飛梅は京都の道真邸の梅の木が道真を慕って大宰府に飛んできたと伝える太宰府天満宮の神木で、今も多くの参拝客に親しまれています。事の真偽はさておき、飛梅の木で唐に渡った天神を彫るという構想からは数々の伝説に彩られた天神信仰ならではの文化的な重層性が感じられます。(末吉武史)