平成30年1月10日(水)~3月4日(日)
1、はじめに
5.嘉永六年ロシア軍艦図(部分)
「維新」とは「すべて改まり新しくなること」を意味しますが、この言葉を聞くと、江戸幕府を中心とする幕藩体制が崩壊し、明治新政府による天皇を中心とする中央集権国家へと政治体制が移行した「明治維新」をイメージされる方も多くいらっしゃるかと思います。
今年、平成30年(2018)は、明治維新から150年の節目にあたります。本展覧会は、福岡市美術館と当館が収蔵する福岡藩主・黒田家伝来の文化財「黒田資料」を紹介する「市美×市博 黒田資料名品展」シリーズの6回目として、十一代藩主・黒田長溥(くろだながひろ)(1808~1887)に関わる資料をはじめ、幕末期から明治維新期の古文書や記録、絵画資料などを展示し、黒田家の幕末維新の一端を紹介したいと思います。
2、迫り来る西洋
十九世紀になると日本の沿岸部に西洋諸国の船が頻繁に姿を見せるようになります。江戸時代に福岡藩が警備を担当していた長崎港でも、文化元年(1804)に使節レザノフを乗せたロシア船が来航し、同5年にはイギリス軍艦フェートン号が港内に侵入する事件が発生(フェートン号事件)するなど、対外的な緊張が高まり、福岡藩でも長崎警備体制の強化など、対応を迫られました。
天保5年(1834)に藩主となった黒田長溥は、ともに蘭癖大名(西洋学問に造詣の深い大名)として知られた実父・島津重豪(しまずしげひで)(鹿児島藩八代藩主)と養父・黒田斉清(なりきよ)(福岡藩十代藩主)の影響から、西洋学問に深い関心を寄せた殿様として知られています。
長溥は、弘化4年(1847)、博多・中島町(なかしままち)(福岡市博多区)に西洋工業を行う施設である精錬所(せいれんしょ)を開設し、硝子(がらす)や薬品、洋式銃などの製造、鉱物の実験などを行わせ、博多の鋳物師・磯野七平の屋敷内に反射炉を建設させ、鋼鉄製の大砲の鋳造を画策しました。また、嘉永2年(1849)には、河野禎造(かわのていぞう)をはじめとする藩士を長崎に派遣し、西洋医学や化学を学ばせるなど、西洋の学問や文化、技術を積極的に藩内に取り入れようとしました。
嘉永6年6月、アメリカ東インド艦隊司令官ペリーが浦賀(神奈川県横須賀市)に来航し、その一ヶ月後にはロシア遣日全権大使プチャーチンが長崎に来航、江戸幕府に対して開国と通商の開始を要求しました。この後、日本は開国に向けて進んでいくことになりますが、この間も長溥は安政2年(1855)に幕府が設置した長崎海軍伝習所に28名の藩士を派遣し、軍艦の操縦や造船技術などを学ばせ、文久2年(1862)に蒸気船(大鵬丸(たいほうまる))を購入するなど、西洋の軍事技術の導入も試みました。