平成30年2月27日(火)~4月22日(日)
狩野昌運(しょううん)とは
出品1 狩野昌運像
寛永14(1637)年、下野国宇都宮(現栃木県宇都宮市)生まれ。岩本姓(祖先は和田)で、幼名は権四郎、初め市右衛門と名乗ります。14歳で江戸幕府の御用を務めていた中橋(なかばし)狩野家の当主・狩野安信(やすのぶ)に入門し、21歳で一人前と認められました。師と懇意(こんい)の京の絵師・狩野了昌(りょうしょう)の養子となり、名を季信(すえのぶ)、号を昌運と改め、狩野の姓を継ぎました。
昌運の絵の腕前が相当のものだったことは、公用でも師の代筆を務めたという記録や、随所にみえる安信の信頼ぶり、そして中橋家の弟子がみな昌運の絵を学んだという記述等から明らかです。
また政治的にも辣腕(らつわん)で定評があります。家督(かとく)を譲るという師の遺言を辞退し、幼い次期当主の後見人にとどまると、時の老中・阿部豊後守(あべぶんごのかみ)に働きかけて、狩野姓を弟子に名乗らせる権利を中橋家が独占できるよう定めたのです。
当時、狩野派宗家(そうけ)の当主・安信よりも、その兄である鍛冶橋(かじばしけ)家の狩野探幽(たんゆう)の方が、世間的には名声を得ていました。安信は絵が下手だから本家を嗣ついだ(食いっぱぐれないよう兄が配慮した)という噂まで生まれたほどです。
そこへ来て昌運の采配(さいはい)は、絵を学ぶ者が狩野を名乗りたい場合、必ず中橋家に入門しなければならないとするもので、宗家の地位と権威を盛りたてる妙計でした。絵の腕前だけでなく、政治力と聡明さも兼ね備えた人物だったことがわかります。
福岡藩御用絵師時代
狩野派宗家の中枢(ちゅうすう)で活躍していた昌運は、50代半ばで福岡藩御用絵師になります。安信門下に名を連ねる絵事(えごと)好きの四代藩主・黒田綱政(くろだつなまさ)の招きでした。しばしば異例と言われる昌運の待遇を、同時期の他の御用絵師と比べてみましょう。
仕事内容では、昌運は古画(こが)の鑑定を一手に担います。御用の中で最も格が高いとされる仕事であり、他家が携わった記録は一切ありません。さらに席画(せきが)といって、藩主のお側で行う絵事の記録が多くある一方で、国絵図(くにえず)の製作という、骨の折れる事務的・記録的な事業には参加していません。また報酬からみれば、昌運は藩から三百五十石の知行(ちぎょう)を与えられていますが、当時の福岡藩御用絵師らは、十余~百五十石程度でした。
明らかに手厚い待遇ですが昌運は常に福岡にいたわけではありません。福岡藩お抱えになったとはいえ、江戸にはまだ十代の安信の子がおり、中橋家の後見として幕府の御用を務める必要もあったからです。晩年ともいえる年齢で江戸と福岡を行き来した昌運の頑健ぶりと、どうしても彼を福岡に招来したいという綱政の熱意が伝わってきます。
師に信頼され藩主にも愛された昌運は、ただ単に絵がうまいやり手の重鎮(じゅうちん)、というだけでなく、何か、話が楽しくいかにも頼もしい、人間的魅力を備えていたのかもしれません。福岡県立美術館所蔵の狩野昌運像(出品1)から、彼の人柄を想像してみてください。