平成30年6月26日(火)~8月26日(日)
黒田斉隆像
はじめに
この展示は江戸時代の中頃から幕末に行われた福岡藩主黒田家とその家族の博多祇園(はかたぎおん)山笠(やまかさ)見物である 「上覧(じょうらん)」について、本館収蔵の古文書や記録を中心に、黒田資料の山笠絵図や藩主肖像(しょうぞう)を展示し、 黒田家と山笠の関わりや博多の人々とのつながりを紹介します。
黒田家の入部と櫛田宮
慶長(けいちょう)五(一六〇〇)年の暮れ、黒田長政(くろだながまさ)は関ヶ原(せきがはら)の合戦の功績で筑前(ちくぜん)国を与えられ、 翌年から築城と城下町の建設が始まりました。博多には豊臣秀吉(とよとみひでよし)が再興(さいこう)して、七つの流(ながれ)という町政の単位ができていました。さらに元和(げんな)三(一六一七)年には長政が博多の総鎮守である櫛田神社の大規模な修復(しゅうふく)普請を行いました。
三代藩主光之時代の祗園祭礼と山笠
その後、三代藩主光之(みつゆき)が明暦(めいれき)時代(一六五五~五七)に櫛田神社に能舞台(のうぶたい)を寄進しています。 山笠は博多の七流の内から順番で六流が造り、残る一流が能を奉納しますが、最古の六流の山笠の標題(ひょうだい)がわかるのは光之時代の寛文(かんぶん)九(一六六九)年といわれます。この時代の山笠は、貞享(じょうきょう)三(一六八六)年の山笠巡行(じゅんこう)図で見ることができます。
五〇年近く藩政を執った光之の晩年に当たる元禄(げんろく)時代の山笠の賑わいぶりは、 福岡藩の儒学者(じゅがくしゃ)貝原益軒(かいばらえきけん)が、「筑前国続風土記(ぞくふどき)」に記しています。また藩は宝永(ほうえい)五(一七〇八)年、博多の町に六本の山の奇数番(きすうばん)は甲冑の勇ましい修羅山(しゅらやま)、偶数番(ぐうすうばん)は髷物(まげもの)の優美な葛山(かずらやま)にするよう命じました。
福岡図巻にみえる6 本の山笠
六代藩主継高と家族の山笠上覧
櫛田神社の記録では、藩主で初めて山笠上覧を行ったのは、六代藩主黒田継高(つぐたか)とされています。 彼は五代藩主宣政(のぶまさ)の従兄弟(いとこ)ですが養子となって世継(よつぎ)に選ばれ、光之同様五〇年以上も藩主の地位にあり、 山笠上覧が一番多かった藩主です。
継高が最初に山笠を上覧したのは藩主に就任後初帰国した翌年の享保(きょうほう)六(一七二一)年で、一九歳の時です。その翌七年も上覧しましたが、 この時は春の長崎巡見(ながさきじゅんけん)から帰ってきて、六月一五日に見物しています。享保時代後半には、藩財政難や同一七年大飢饉などもあり、 寛保(かんぽう)二(一七四二)年には藩から山笠への助成金も始まりました。
櫛田神社が修復された元文二(一七三七)年には国元の家族である姫君の上覧も始まりました。この時期の上覧は、 藩主であれ家族であれ聖福寺(しょうふくじ)、東長寺(とうちょうじ)といった山笠の道順にある寺社や、櫛田神社に桟敷を設け、飾付が終わって他流での山舁(か)きも始まった後の一三日、あるいは舁山(かきやま)当日一五日にあることが多く、祭りの流れに沿っての、いかにものんびりとした「見物」といった感じです。
継高には国元(くにもと)の福岡でうまれた重政(しげまさ)と平八(へいはち)(長経<ながつね>)という二人の息子もおり、 年長の重政が世継となり江戸に上ぼる前に上覧し、櫛田神社の神職祝部氏屋敷に、生母の信仰したお稲荷様(いなりさま)を祀ったりもしています。一方、平八は寛延(かんえん)元(一七四八)年の六歳頃に初めて上覧し、当番町の中まで入り込んで見物を楽しみ、一〇代には山笠だけでなく、 奉納される能や、合間の狂言も楽しみました
継高は宝暦(ほうれき)一二(一七六二)年、翌一三年と重政と平八を相次いで失い、 養子の世継として徳川将軍の一族(いちぞく)一橋(ひとつばし)家から治之(はるゆき)を迎えました。この時期の継高は宝暦一二年から明和(めいわ)三(一七六六)年にかけてしばしば山笠を上覧し、国元の側室や姫君だけでの上覧もありました。
継高の隠居で新藩主に就任した治之は、明和七年の初入国の時に聖福寺前で山笠を上覧しています。 ただ継高がその時の山笠絵図をみて、描かれた龍の飾りが気に食わず、以後、龍は山笠に登場しなくなったといわれます。なお藩主に見せるため博多から提出する山笠図を御用絵師が清書する記録などが見られるようになるのが宝暦~明和の時期で、毎度山笠を見物できない黒田家の人々はかなり期待していたのかもしれません。
その後継高の家族では、糸(いと)姫が安永(あんえい)七(一七七八)年、翌八年の二度にわたって上覧しています。 展示では彼女が安永八年に見た山笠の下絵を紹介します。継高には一六人もの姫があり、国元で生まれたのは八人です。ただ幼くしてなくなる人も多く、一〇代後半には婚姻のため江戸に上っていきます。山笠を見物できるまでに成長し、しかも見物の機会に恵まれたのは糸姫などわずか四人でした。