平成30年12月11日(火)~平成31年3月31日(日)
前方後円墳の発掘調査
(元岡石ヶ原古墳)
はじめに
前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)に代表される古墳が近畿を中心に全国に広がる古墳時代。政治や経済も近畿の王権を中心としたものに変化していきます。この時代における漁労(ぎょろう)など海の生業や、海辺の祭祀などにも近畿地方の影響がうかがえます。
一方、大陸に近い九州は依然として外交や軍事上の要衝(ようしょう)であったため、その豪族(ごうぞく)は力をもち独特の古墳文化が育まれます。博多湾の海辺には海民(かいみん)の集落やその墓のほか、平野を支配した豪族の前方後円墳なども造られました。
今回の展示では古墳時代の海と関わりの深い遺跡を紹介します。その発掘調査資料から、博多湾沿岸を拠点とした豪族や海民について考えてみましょう。
イイダコ壺(今山遺跡)
変化する海の生業
古墳時代のはじめ頃(3世紀後半)から北部九州では蛸壺漁(たこつぼりょう)が活発になります。左の写真のような孔(あな)の開いた小壺を多数、綱(つな)に結び付けて海中に沈め、イイダコを獲る漁法です。このような蛸壺の形態や漁法は弥生時代の大阪湾沿岸に由来するものです。また、この時代から増加する土錘(どすい)は各種の網漁に使用されたおもりで、これも大阪湾沿岸や瀬戸内地方に由来する形態がみられます。こうした大小さまざまな規模で操業される漁労とともに、専用の土器を使用して海水や海草から塩を作る製塩(せいえん)の技術も伝わっており、大阪湾沿岸などから海民集団が北部九州にも移り住んだと考えられます。博多湾沿岸では海民集団の編成も含めて生業や食糧流通のあり方が大きく変化するようです。古墳時代の社会変化は海の暮らしにも及んでいたのです。