平成30年12月11日(火)~平成31年3月31日(日)
福岡市指定文化財
三角縁二神二車馬鏡(藤崎遺跡)
琴柱形(ことじがた)石製品
(箱崎遺跡)
古墳時代の儀仗(ぎじょう)の形を
かたどったとみられる小型の石製品
海の古墳
弥生時代から続く海民の集落遺跡の一部に、倭(わ)の外交や工業に関わる特別区域が設けられます。いずれも古墳時代前期の3~4世紀に限られますが、西新町(にしじんまち)遺跡では朝鮮半島からの人々が集住した区域が、博多遺跡群では新たな鍛冶(かじ)技術を導入した鉄器生産の工房(こうぼう)区域がみつかっています。
そうした遺跡の近くからは同時代の古墳群もみつかっています。西新町遺跡に隣接する藤崎(ふじさき)遺跡では方墳(ほうふん)や前方後方墳(ぜんぽうこうほうふん)が約20基発掘されています。墳丘長10m前後の小古墳が多いですが、盟主墳(めいしゅふん)(古墳群に埋葬された集団のリーダーの墓)は20m近くの墳丘長で、舶来(はくらい)の三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)や大刀(たち)などが副葬されています。平野の前方後円墳と比べると小規模な古墳ですが、西新町遺跡を拠点に外交や交易の実務を担った海民集団の古墳群と考えられます。
前方後円墳から出土した埴輪
(博多遺跡群)
古墳時代中期の5世紀頃には墳丘長50m超の前方後円墳も砂丘上に造られました。博多遺跡群の発掘調査で、前方後円墳の葺石(ふきいし)や周囲を巡る溝、埴輪(はにわ)などがみつかり、複数の前方後円墳が砂丘上に並んでいたことが明らかになったのです。いずれも墳丘の大部分が失われており、副葬品の内容等は不明ですが、葺石や埴輪を備える前方後円墳は上位階層の古墳であり、九州では各平野を治めた豪族クラスの古墳とみられます。5世紀代は福岡平野を治めた豪族の古墳が、博多湾を望む地を選んで造営されたことが分かりました。
他にも、箱崎(はこざき)の砂丘遺跡ではより小規模な古墳群ですが、円墳の葺石や石室などが発掘され、さらに近年、姪浜(めいのはま)遺跡でも古墳の周溝(しゅうこう)らしき遺構や埴輪がみつかっています。
【左】単鳳環頭大刀
(桑原石ヶ元8号墳)
【右】百済土器(桑原石ヶ元9号墳)
*刀は常設展示
糸島平野では砂丘遺跡から古墳はあまりみつかっていませんが、海を望む丘陵に前方後円墳をはじめとする古墳が分布する大規模な古墳群が幾つかあります。糸島東部の今宿(いまじゅく)平野と呼ばれる小平野に面する丘陵一帯には500基あまりの古墳群が分布しています(今宿古墳群)。古代の今津(いまづ)湾はこの小平野に入り込んでおり、潟湖(せきこ)が形成されていました。古墳群の多くはこの潟湖を望む丘陵に立地しますが、この中でも4~6世紀に代々築かれた大規模な前方後円墳は丘陵の先端近く、海に近い立地傾向があります。
この対岸、九州大学伊都(いと)キャンパスのある丘陵地は今津湾の北西岸になります。大学建設にともなって発掘調査された元岡(もとおか)・桑原(くわばら)遺跡群でも100基近い古墳が確認され、前方後円墳は4~6世紀代にわたります。この中で最後の前方後円墳にあたる元岡石ヶ原(もとおかいしがはら)古墳は丘陵の最も高い位置から、潟湖を望む立地になります。この遺跡群の一帯は古代の嶋(志麻(しま))郡にあたりますが、『日本書紀(にほんしょき)』に対外派兵の軍が駐屯した記録もある、軍事的前線として重要な地域でした。元岡・桑原地区の古墳群の発掘調査でみつかった副葬品には、軍事的権威のシンボルであった装飾大刀(そうしょくたち)や銘文(めいぶん)が刻まれた刀、朝鮮半島系譜の矛(ほこ)や土器などがあり、対外的な軍事や外交で活躍した豪族の姿を物語っています。
滑石製の子持勾玉(元岡・桑原遺跡群)
海と祭祀
古墳時代には祭祀の道具や方法も変化し、近畿地方発祥の祭祀が九州にも波及します。博多湾の海辺でも、堅粕(かたかす)遺跡などで、滑石(かっせき)で作られた玉類を用いた祭祀場や、馬具が出土した土坑(馬を犠牲にする祭祀の遺構とみられる)などがあります。滑石の玉類を生産した集落が三苫(みとま)遺跡などでみつかっていますが、そこで生産された玉の一部は、玄界灘(げんかいなだ)の祭祀遺跡である沖ノ島(おきのしま)にも供給された可能性が考えられています。(森本幹彦)