死絵 −明るく笑ってさようなら−
令和元年5月8日(水)~7月7日(日)
出品19 死絵 八代目市川団十郎
「なに故に…」(部分)
はじめに
死絵(しにえ)とは、歌舞伎役者などの著名人が亡くなった時に、訃報(ふほう)と追善(ついぜん)を兼ねて摺(す)られた浮世絵のこと。江戸後期から幕末にかけて多数制作されました。字面こそ陰気ですが、絵面は案外華やかで、ユーモアが感じられるものも多く(出品19)、「死」よりも「生」について多くを物語ってくれる資料かもしれません。
本展では当館所蔵・旧吉川観方コレクションの死絵を通して、江戸時代の庶民の軽やかで強(したた)かな姿をご紹介します。
必修!死絵概論
基本的に死絵は、亡くなった人の絵姿に、没年月日・戒名(かいみょう)・菩提寺(ぼだいじ)・辞世(じせい)の句などの情報が添えられています。水浅葱(みずあさぎ)色(薄青)の衣装が多いのは、これが当時の死装束・喪服の定番色だったからです。中でも出品13にみられる水裃(みずかみしも)は、死絵に最も多く登場する衣装。他にも、数珠(じゅず)・樒(しきみ)・香炉・蓮(はす)・蝶など仏事を連想させる小物がよく登場し、描かれた人物が既に亡くなっていることを示します。
現在確認されている死絵の中で最も早い作例は、安永6(一七七七)年作の二代目市川八百蔵(いしかわやおぞう)死絵、最後の作例は、昭和10(一九三五)年作の初代中村鴈治郎(なかむらがんじろう)死絵です。当館所蔵作品のうち最も古いのは、文化12年(一八一五)に没した尾上松緑(おのえしょうろく)の死絵(出品1・3)です。
出品18 死絵 八代目市川団十郎
「お升さん…」(部分)
死出の旅姿をした団十郎の背後で
嘆くファン達の台詞が面白い。
特に「初代尾上松緑見立涅槃図(おのえしょうろくみたてねはんず)」(出品1)は、役者の死を釈迦(しゃか)の入滅(にゅうめつ)に見立てた最も早い作例として注目されます。このような絵が生まれる背景には、「仏涅槃図(ぶつねはんず)」といって、涅槃に入る釈迦を弟子や動物が取り囲んで嘆き悲しむさまを描いた中世以来の伝統的仏画様式があり、それが近世に普及し誰もが知る絵となった上で、出品2のように、高僧の死に仏涅槃図のイメージが重ねられるという前段階があったものと推察されます。この時点で既に、死絵が文化的にかなり高度なデザインに達していたことがわかります。
そのほか死絵の定番スタイルとして、生前の当たり役に扮した姿(出品4)や死出(しで)の旅姿(出品18・25)などがあり、鑑賞の前提として歌舞伎文化が共有されていたことや、当時の死生観も窺えます。
仰天!死絵事件簿
死絵は、著名人が亡くなった直後から先を争うように板行(はんこう)(刊行)されました。その売れ行きは常の役者絵の数倍にのぼり、死後二、三日で江戸中に訃報が周知されたといいます。ただし、二十日もすれば死絵はぱたりと売れなくなったそうです。
当然、版元(はんもと)は制作を急いだのでしょう。死絵の中には、版木(はんぎ)を使い回したとみられる作例が多数あります。同じ役者の生前の絵を死絵に仕立てるならまだしも、別人の死絵を文字情報だけ差し替えて間に合わせた例(出品13)も見つかりました。さらには、故人の名前を間違える(出品7)、辞世の句や戒名をでっちあげる(出品16他)など、今では考えられないいい加減さがそこかしこにみられます。中には、まだ亡くなっていない人の死絵まで出された例があり、不謹慎を通り越していっそ笑いが込み上げます。
禁令!死絵出版事情
さて、展示3章では死絵が軒並み「作者不詳」(出品15・17~25)となっていることにお気付きでしょうか。これには歴とした理由があります。
天保13年(一八四二)6月、老中水野忠邦(みずのただくに)によって役者絵が禁じられました。奢侈(しゃし)を戒める天保の改革の一環でした。改革自体は各所で反発を招き早々に勢いを失いますが、役者絵・死絵の出版には長く影を落としました。
嘉永2年(一八四九)は、死絵が再び板行され始めるとともに、改革の見せしめとして江戸を追放された人気役者・五代目市川海老蔵(いちかわえびぞう)が、7年ぶりに長男・八代目市川団十郎(いちかわだんじゅうろう)と再会を果たした年でもあります。この様子を報じた出品12は、出版界と歌舞伎界に訪れた久しぶりの春を象徴する作品だといえるでしょう。
ただし出版界の自粛ムードを払拭するには至らず、さらに万延元年(一八六〇)春頃まで実に20年間も、役者絵に役者名が記載されない時代が続いたのです。その間、死絵には役者名が明記されることもありましたが、そこでは絵師や版元の名が省かれました。これが「作者不詳」大量発生の理由です。逆に絵師の名を記して役者の名を記さない「役者不詳」の死絵もあります。いずれにせよ、出版規制の影響力がよく分かります。