死絵 −明るく笑ってさようなら−
令和元年5月8日(水)~7月7日(日)
挑戦!死絵探偵
ただし「役者不詳」の死絵は、江戸っ子がただ規制に怯えるだけではなかったことも教えてくれます。役者名が省かれ、誰が亡くなったのかがわからない死絵では、報道の役を果たしません。また戒名がなく、絵面も機知に富むことから、純粋に追善供養のために作られたものとも思えません。おそらく天保の改革後に流行した判じ絵と同様に、誰が描かれているのかを当てる「楽しみ」のために制作されたのでしょう。
例えば「弾正直則(だんじょうなおのり)」(作品26)は仁木弾正(にっきだんじょう)という有名な悪役を描いたものですが、役者名がありません。しかし歌舞伎ファンなら、手を合わせて拝む姿が仁木弾正の代表的ポーズ(印を結ぶ)のパロディであり(参考1)、その役で人気を博した初代松本錦升(まつもときんしょう)を暗示する絵だということがすぐに分かったはずです。ファンにしかわからない描き方で規制をかいくぐり、禁じられた役者絵・死絵を楽しむ…まさに痛快です。
出品26 連生坊(部分)
なお今でも、役者名を欠く死絵の一部は、誰を描いたのかわからない謎の役者絵として埋もれていると思われます。当館でも、死絵だった可能性の高い作品が見つかりました。「連生坊(れんしょうぼう)」(出品26)は、五代目市村竹之丞(いちむらたけのじょう)死絵と推察されます。熊谷直実(くまがいなおざね(蓮生坊)が生前の当たり役だったことに加え、蓮の花や水浅葱色の法衣が描かれていることと、類例の存在が根拠です。
おわりに
最後に、展示資料に登場する歌舞伎役者と福岡の関わりをご紹介します。
五代目市川海老蔵は、博多織を江戸に広めた一人で、天保5年(一八三四)には福岡を訪れ評判を呼びました(企画展示解説355・519参照)。その長男で非業の死を遂げた八代目市川団十郎は、最期の時には「博多帯を〆(しめ)」ていたと伝わります(『市川団十郎一代狂言記』)。真偽はともかく、博多織の帯が、江戸一番の人気役者に似合いの格好良いものとして認識されていたことは確かでしょう。
死絵を眺めていると、大好きな人の死や厳しい規制など、困難な現実に直面しながらも逞しく軽やかに乗り切ろうとした人々の姿が見えてきます。死絵の中の「博多帯」を探しながら、明るく笑っていただければ幸いです。 (佐々木あきつ)