博多祇園山笠展19-堂山と描かれた近世福博の女性たち-
令和元年6月11日(火)~8月4日(日)
祭礼と名所の中の女性たち
続いて博多の祭礼や名所の中の女性たちの姿を見てみます。
江戸時代前期に、博多を巡行する山笠が描かれた屏風には、華やかな小袖(こそで)に、長めに髪を結った元禄ファッションの女性たちが山笠を見物する姿も描かれています。益軒が記述した山笠見物の頃には、このような女性たちが多く見られたのでしょうか。
江戸時代後期に作られた『筑前名所図会(ちくぜんめいしょずえ)』には、博多のもう一つの祭礼・正月の松ばやしが描かれています。メインの福神(ふくじん)行列には馬に乗った男女の神様がおり、それに続く鶴(つる)の笠を被(かぶ)った若い女性の歩く行列が続きます。多くは町の裏長屋(うらながや)などで暮らす庶民の少女たちが扮(ふん)したものだったと言われます。また松ばやしで、福博の各家を祝いに訪れる酔った客を接待(せったい)する場面では、家の女主人や奉公人の姿も描かれます。
「福岡図巻(ふくおかずかん)」に描かれた博多の秋の祭(まつ)り放生会(ほうじょうや)では、屋形船(やかたぶね)で箱崎(はこざき)浜に上陸し、松原の中で幕を張り宴や芸事を楽しむ商家の女性の着物姿が見られます。このほか芝居や見世物、博多・福岡の寺社巡りの名所紹介に、女性たちが見物する姿も描かれています。
生業と暮らしの中の女性たち
『筑紫遺愛集』(熊蔵妻と辻店)
江戸時代後期の博多、福岡の町人や大商人たちの家には、夫とその妻が二人並んで描かれた肖像が残されていることがあり、夫婦一緒でその店の経営(けいえい)と家の繁栄(はんえい)を支えている象徴的な絵です。江戸時代中期の『筑前孝子良民伝(ちくぜんこうしりょうみんでん)』の挿画などで、それら大店(おおだな)の夫人たちの日常の姿を見ることができます。多くは主人や両親に仕える姿ですが、家の中の奉公人たちの女主人、いわゆる「ごりょんさん」としての姿もあります。
幕末の『筑紫遺愛集(ちくしいあいしゅう)』には、借家や長屋住まいの庶民の老夫婦が、場末の辻店(つじみせ)で商売に励(はげ)む姿が描かれています。夫を亡くした女性が「後家(ごけ)」として一家を背負い、義理の親に仕える様子もみられ、女性たちが自家の機(はた)で、家族のために日常の衣服を織ったり、賃稼(ちんかせ)ぎをしている様子もわかります。
これらは男性中心だった当時の社会の視点で描かれていますが、女性たちの素朴(そぼく)で真摯(しんし)な姿は人情ものの時代劇を見るようです。明治期の宣伝で名産の博多織(はかたおり)を織る女性たちが登場しますが、江戸時代の博多織の職工(しょっこう)は多くが男性であったと言われます。
武家が大半を占める福岡の町には、武家屋敷に奉公する町方出身の女性たちも多く、武士の娘に生まれた野村望東尼(のむらぼうとうに)(野村もと)が描く「童戯図画(どうぎのずが)」にその姿を見ることができます。
芸能と伝承の中の女性たち
江戸時代の博多には芸能に生きる女性もおり、博多独楽(こま)といった大衆娯楽(たいしゅうごらく)の宣伝広告でその姿を見ることができます。また、『筑紫遺愛集(ちくしいあいしゅう)』には盲目(もうもく)でありながら三味線(しゃみせん)の達人(たつじん)となり、師匠(ししょう)として生きた女性が紹介されています。
古代・中世から江戸時代の初めにかけて貿・交易で栄えた博多には、女性にまつわる伝承が多くのこされ、継子(ままこ)いじめで死んだ少女は『筑前名所図会(ちくぜんめいしょずえ)』にも描かれています。海賊(かいぞく)退治(たいじ)の遊女(ゆうじょ)・小女郎(こじょろう)は、江戸時代に近松文左衛門(ちかまつぶんざえもん)が浄瑠璃に取り上げ、博多の名までも有名にしました。また同時代の博多の遊郭(ゆうかく)の花魁(おいらん)・染衣と浪人の悲恋の話は、近代にも引き継がれ、供養の絵画で残されています。
このほか当時の工芸品の中で、博多人形のルーツといわれる人形師が作った舞人形(まいにんぎょう)や、女性面などにも、当時の女性の姿がとどめられています。 (又野誠)