戦争とわたしたちのくらし28
令和元年6月18日(火)~8月18日(日)
地域を支える
防空図解「防空に対する各家庭平常の準備」
家の外にも、女性が果たすべきとされた多くの仕事がありました。
出征軍人へ送る慰問品や慰問文は、個人で調達することもありましたが、多くは近所や町内を単位として送付されました。
入営や出征の時に贈られた千人針は、布に女性が一人ひと刺しずつ、千個の結び目をつくるもので、兵士の武運長久を祈るお守りです。寅年(とらどし)の女性は「虎は千里往って千里還る」ということわざから、歳の数だけ結び目を作ることができました。千人針の製作には多くの女性の力が必要なので、近所や職場、町内、あるいは街頭で協力が求められました。
空襲への対策として、銃後の国民は防空訓練を行いました。防空の末端組織は、昭和13年(1938)から家庭防空組合、15年には隣組と呼ばれます。どちらも数戸から十数戸程度の隣近所の範囲です。防空を訴えるポスターや防空訓練の写真には、男性よりも女性の姿が多く見られます。壮年の男性が軍事に携わる中、女性たちは地域を支えることになりました。
昭和16年以降、政府は労働力不足の対応策として、女性の労働力を動員していきます。同年10月に女性が従事すべき職種の指定を行い、翌月には14~40歳未満の男性と14~25歳未満の未婚女性からなる勤労報国隊を編成、軍需産業や農業に動員しました。さらに昭和19年、12~40歳の未婚女性によって構成される女子挺身隊が組織され、女性の動員が強化されました。職業紹介機関も、国策に沿う形で工場労働者の募集を行いました。
婦人会の活動
消火作業のバケツ訓練
戦時期の女性の活動の場のひとつは婦人会でした。全国規模の団体として、愛国婦人会、大日本連合婦人会、大日本国防婦人会がありました。
愛国婦人会は、明治34年(1901)に創立された婦人会で、日露戦争(1904~1905)の際に出征兵士の送迎や慰問などの活動で発展しました。大日本連合婦人会は昭和6年の創立で、小学校区ごとの保護者会を母体とする組織でした。大日本国防婦人会は軍部の指導の下、昭和7年に発足した団体で、銃後体制の強化を目的としました。昭和17年2月、政府はこれらの婦人会を統合し、20歳以下の未婚者を除く全女性を会員とする大日本婦人会を結成します。
婦人会は、会員が揃いの衣装を着用し、出征兵士や戦傷病兵士の慰問、防空訓練、資源回収、遺骨の出迎えなど、組織的に銃後のつとめを果たしました。役員会では慰問袋の調達や貯蓄目標などが話し合われています。婦人会は、託児所の設置や共同炊事の実施が検討されたほか、料理研究会も開催しており、家庭内外での仕事が多く、物資不足に悩む女性の生活面を支援する役割を果たそうとしていました。しかし、戦局の悪化とともに、人手や物資の不足はますます悪化していきました。 (野島義敬)