筒描(つつがき) -庶民生活の華-
令和元年8月6日(火)~11月17日(日)
友禅染(ゆうぜんぞめ)
姑(しゅうとめ)は新婚夫婦のために、取引先の京都から宝尽しの模様が入った夜着(よぎ)を取り寄せてくれた。鳳凰(ほうおう)の周りにびっしりと宝物の数々が友禅染で描かれている。穴の大きさや形の違う筒を取り換えながら丁寧に糊置きされ、幾度も色をさしているのがわかる。筒描と同じ糊置き染の技なのだが、筒描と比べると友禅染は緻密(ちみつ)で垢抜け(あかぬけ)ている。
いっしょに仕立てた掛け袱紗は、絹に友禅染で海老(えび)の注連飾り(しめかざり)が描かれていた。嫁とついだひとは、都(みやこ)の香りを肌で感じていた。
五月幟
子供が生まれた。普段は厳しかった舅(しゅうと)が破顔一笑(はがんいっしょう)。待望の男児であり、端午(たんご)の節供(せっく)は盛大に祝う運びとなった。店の外に立てる大型の節供幟(せっくのぼり)は、杷木(はき)の染物屋に頼むことになった。そこで染める幟は、武者が大柄で大胆に描かれる独特の風格で博多でも評判だった。これも筒描である。
修業を終えた青年が、その染物屋にいた。彼は幼馴染のそばから遠くに離れることで、傷ついた心を癒そうとしていた。そこへ飛び込んできた仕事は、運命のいたずらか、心に思い続けてきたひとの子のために、節供幟を染めることであった。
筒描で輪郭に糊置きするところは風呂敷と同じ。違うのは幟は両面から見えるので、どちらも鮮やかに染める。そのために裏がわに色映り(いろうつり)しないように薄く刷毛で糊を塗っていく。手間は二倍になる。それでも青年は丹精込めて染めた。
呉服屋の外には大幟と鯉のぼりがはためいている。目を細めて子供をあやしながら、にこやかにそれを見上げる彼女には、幟を染めたのが幼馴染の彼だとは、知る由(よし)もなかった。
軒先には楠木正成(くすのきまさしげ)の五月幟、床の間には菖蒲打ち(しょうぶうち)をする男児を描いた「座敷幟(ざしきのぼり)」が節供祝いとともに飾られている。どちらも京都の取引先から届いたお祝いで、友禅染で描いたものだった。幟の上には「まねき」と呼ばれる小旗がついている。彼女には、それが博多祗園山笠の頂上に付ける「二引き(にびき)」の旗と同じように見えた。
泣き黒子
幼馴染は「ごりょんさん」として立派に店を切り盛りするまでになった。子供たちにもめぐまれ、家と命をつなぐという使命を立派に果たした。気が付くと髪に白いものが混じる齢(よわい)になっていた。
ひとり娘が嫁ぐことになった。その支度のために自分の嫁御風呂敷の包みを久しぶりに解いた。里から持参した着物を眺ながめていて「はっ」とした。今までなんで気づかなかったのかと。同時に切なさ(せつなさ)がこみ上げてきた。風呂敷の鴛鴦の一羽の目元に小さな点が現れていたのだ。彼女には、それが雄鳥の涙に見えた。黒点は幼馴染の青年の顔にあった泣き黒子と同じところにあった。彼が染めたものに違いないと彼女は確信した。年月(としつき)を経ると染料が擦すれて点が見えてくるように彼が筒描を細工していたのだ。すべてを悟った彼女は、一人咽むせび泣いた。
前掛けのひと
時は流れた。彼女が亡くなったと聞いた。やがて自分もそこへ行くと思える、青年もそんな年になっていた。若き日の記憶とともに生きているうちに、気が付けば、所帯(しょたい)を持つことなく、ただ藍のために生きることを選んでいた。来世でも今生(こんじょう)と同じように、また彼女に出会いたいものだと思う。
時代は昭和と変わった。彼は「酒屋前掛(さかやまえかけ)」を作っている。得意先に酒屋が配る宣伝用の前掛である。商標(しょうひょう)や商品名などを糊止め白揚げして染めたものだ。帆布(はんぷ)のように厚い布を何度も染料に入れて染めるので、「どぶ漬け」と呼ばれることもある。前掛けには激しい作業でも破れず、色を失わない強靭(きょうじん)さが要求される。
紺地(こんじ)に商標の表を裏返すと、そこに嫋やか(たおやか)な女性のシルエットが現れてきた。糊を洗い流した白い影に、彼は筆で色をさしていく。顔を描いた。その容貌は思い続けてきた幼馴染にどこか似ている。最後に目を点ずると、ゆっくりと筆を置いた。そして遠い目をした。その刹那(せつな)、一筋の涙が、すっと頬を伝って前掛けの上にぽたりと落ちた。
彼は、あの日のことを思い出していた。彼女の名前に寄り添うように入れた自分の名前が、藍にゆっくりと吸い込まれ、溺おぼれていく様を…。 (福間 裕爾)