近代福岡の新聞
令和元年10月22日(火・祝)~12月22日(日)
福岡創刊の新聞
明治10年3月、現存が確認できる福岡最古の新聞である『筑紫新聞』が創刊されました。『筑紫新聞』は、福岡下名島町(現中央区天神)の弘聞社が発行元で、発行は3日に1回、定価は1冊あたり3銭でした。創刊の前月、鹿児島で武装蜂起が起こり、政府軍との戦闘が始まりました(西南戦争)。西南戦争の動向は福岡の人びとの大きな関心事でした。『筑紫新聞』は創刊からこの戦争の動向を詳しく報じました。第1号の附録は、熊本城を中心とした戦闘地域の地図です。附録地図による戦況報道は、東京の主要新聞紙よりも早いものでした。『筑紫新聞』は、鹿児島軍の人吉奪回の誤報で記事取り消しとなったこともあり、第35号で休刊になりました。
『筑紫新聞』の休刊後も、『福岡新聞』(成美社)、『めさまし新聞』(悟楽社)など、福岡での新聞の発行は続きました。『めさまし新聞』は、明治12年8月から『筑紫新報』に改題します。
明治13年4月、『筑紫新報』を吸収・改題する形で、福岡初の日刊紙である『福岡日日新聞』(福岡日日新聞社)が創刊されました。創刊時は4ページで、1部2銭でした。『福岡日日新聞』は、自由民権運動の高まりを背景に、議会の開設や言論の自由を主張する論説を掲載しました。記事に見出しを付けたり、段組を変更して文字数を増加させるなど、紙面の改良が重ねられました。
明治20年8月、玄洋社系の人びとによって、新たな日刊紙『福陵新報』(福陵新報社)が創刊されます。創刊当時のページ数や購読料は、『福岡日日新聞』と同じでしたが、翌年7月に購読料の値下げを行い、購読者の拡大をはかりました。
「福日」と「九日」―二大新聞の時代
明治20年代、『福岡日日新聞』は経営改革と紙面改良を行い、自由党系新聞となりました。一方、『福陵新報』は設備投資の増加で明治31年に経営危機に陥ると、新たな出資者のもとで経営を刷新し、『九州日報』と改題します。「福日」と「九日」は、昭和17年(1942)に合併し『西日本新聞』が誕生するまで、福岡の二大新聞として発展・定着していきました。
二大新聞の発展を支えたのは、速報性の高いニュースへの需要でした。日清戦争(1894~1895)、日露戦争(1904~905)の際には、新聞社が戦地に派遣した記者を通じて、戦闘や戦局の情報が多くもたらされました。特に重要な局面では、街頭で号外が配られ、新聞の有用性が高まりました。
国内情報では、衆議院議員選挙の報道もさかんに行われました。自由党(のちに立憲政友会)系の『福岡日日新聞』と玄洋社(非自由党)系の『九州日報』は、選挙戦において互いに自派の優勢を報じています。
大正時代には、ニュース量の増加と新聞報道の速報性向上のため、新たに夕刊が発行されます。「福日」「九日」両紙とも、大正10年(1921)から夕刊を始めました。当時の夕刊の日付は、発行当日ではなく、翌日のものになっていました。これは、夕刊の速報性をアピールするためと、朝に朝刊と夕刊を一度に配送した際に夕刊の情報が古く感じられることを避けるためでした。夕刊の日付が発行日と同じになるのは、第2次世界大戦の後のことです。 (野島義敬)