江戸時代の武士とは
令和元年11月12日(火)~令和2年1月13日(月・祝)
「治者」として生きる
福岡藩の藩士は、知行高や扶持高に対応した軍団組織に編成されていました。この軍団組織に応じて領内の警備や長崎港の警備、福岡城内の警備、城下の門番など、番方と呼ばれる軍事的な職務を藩士たちは務めました。
番方に対して政治・財務など行政関係の役職を役方と言いました。福岡藩では江戸時代中期、三代藩主・黒田光之(みつゆき)の時代になると行政的な事柄が多様化して重要性も増したため、役方の役職の整備が進み、藩政は次第に行政組織を中心に運営されるようになりました。
通常、藩士は軍団組織に所属して番方の役職を務めましたが、能力に応じて役方の役職に任じられ、藩士によっては数多くの役職に就く場合もありました。
十代藩主・黒田斉清(なりきよ)と十一代藩主・黒田長溥(ながひろ)に仕えた杉山尚行(なおゆき)は大目付(おおめつけ)(藩士を監察する役職)を皮切りに、文政(ぶんせい)12年(1829)に御納戸頭(おなんどがしら)(藩主の奥向関係を統括する役職)に任じられ、その後、裏判役(うらはんやく)(藩の財政を統括する役職)を経て嘉永(かえい)4年(1851)5月には家老次席になるなど、藩政の中枢に関わる役職を数多く務めました。尚行は文政12年から安政(あんせい)7年(万延(まんえん)元、1860)にいたる31年間の役中日記【資料番号12】を39冊も残しており、政治的・官僚的な役割を担った武士の日々を知ることが出来ます。
同じく斉清と長溥に仕えた大野貞正(おおのさだまさ)も大目付や御納戸頭、裏判役などの役職を勤め、隠居後も再出仕を命じられるなど藩政の一端を担いました。貞正も大目付と御納戸頭を務めた際、職務に関する日記を残しており、「治者(ちしゃ)」として生きた武士の姿がうかがえます。
学問と武芸は身を助ける
福岡藩の藩士には、専門的な技術をもって藩に仕える者もいました。彼らは一般の藩士とは区別して「家業(かぎょう)」と呼ばれ、代々家職として専門の役職を担いました。学問をもって仕える儒学者や軍学者、藩の医術を担う医師(内科、外科、産科、鍼科など)、藩主の命による画業や絵図の作成に携わる御用絵師、船方や大筒役(おおづつやく)など軍方に関わる専門職、鷹方や馬方など動物の管理に関わる役職、乱舞方(らんぶかた)と言う能楽に関わる家など分野は多岐にわたりました。
家業の藩士の中には剣術や鎗術(そうじゅつ)、弓術(きゅうじゅつ)、柔術、馬術など、武道の指南役として仕えた者もいました。江戸時代中期以降、武士の務めは政治的・官僚的な側面が強くなっていきましたが、武士は本来の務めである「武」、つまり武力を行使する機会があることを想定して武道を修め、有事に備えていることが求められました。
福岡藩士・月成(つきなり)家の資料【資料番号27】には、歴代の当主が稽古・修行した結果、師範から授けられた剣術(二天一流(にてんいちりゅう))、鎗術(宝蔵院流(ほうぞういんりゅう)・本心鏡智流(ほんしんきょうちりゅう)、弓術(日置流(へきりゅう)・吉田流(よしだりゅう))、馬術(大坪流(おおつぼりゅう))などの相伝書や免許状が数多く残されています。江戸時代の武士が、職務のかたわら様々な武道の修行に励んでいた様子が分かります。 (髙山英朗)