電気紋織-博多織から生まれた技術革新-
令和2年1月28日(火)~4月12日(日)
電気紋織とは―従来の博多織との相違点
まず、明治中期頃までの博多織は機織機(はたおりき)を用いた手織りの時代でした。機織の基本的な原理は、経糸(たていと)を張りその間に緯糸(よこいと)を通すもの【図1】で、その通し方と糸の素材などによって文様(もんよう)をつけていくものです。人力によって織られることもあり、複雑な文様を織ることはなかなか困難でした。
織物業界では明治の文明開化を機に政府の勧業奨励政策を受け、イギリスやフランスなどの紡績機や織機の調査を行い、西欧の先進技術の導入が図られていました。博多織に適した織機として、フランスのジョセフ・マリア・ジャカールが1802年に発明した紋織機「ジャカード」が明治7(1874)年に導入され、模範工場もでき、日本式に改良されていきます。一般の織物工場に取り入れられ始めたのは、明治17(1884)年頃からです。これは、1枚ずつの穿孔(せんこう)した(穴をあけた)紋紙(パンチカード)【図2】を綴(つづ)ってジャカード機にセットすると、穴の有無によってそれぞれの針が上下運動を行い、経糸を上下に分けていきます【図3】。つまり、紋紙の穴のあるところは経糸が持ちあがり(経糸が上になる)、反対に穴のないところは経糸が持ちあがらない(経糸が下になる)仕掛けになっています。この紋紙で意匠(いしょう)(文様)を組むことによって複雑な織を可能としました。
ただ、経糸1,000本、緯糸2,000本を要するデザインなら、1枚の紋紙に最大で1,000個の穴ができ、それが2,000枚必要ということになります。複雑な織りを可能にする一方で、この紋紙を用意するために膨大な時間と労力を要すことが大きな課題であり、金作が電気紋織機を開発した動機の一つでした。
電気紋織の仕組み【図4】は、まず原画を左右に動くドラム(円筒)に巻きつけて回転させながら光を当て、光電管がスキャナーのように濃淡や光沢度などの差異を反射光から捉え、電気エネルギーに変換します。その後、増幅器、光電流分電器を経て電磁選出装置に送られると、目的の針を自動選別し、マグネットの作用で経針が上下します。そこに緯糸を通して織っていくことで織機がまるでプリンターのような役割を果たすわけです。この技術によって人物、風景、名画など様々な図柄を緻密に表現することを実現しました。
従来のジャカード機は、まず原図を基に紋紙を作り、それらを綴って織機にかけました。しかし、電気紋織ではこれらの煩雑な工程を必要とせず、原図から直接織ることができる点で極めて画期的でした。
さらに、電気紋織機には紋紙製造装置も付属しており、織りを行うと同時に紋紙を自動的に作ることができました。この紋紙が記憶装置の役割を果たし、従来のジャカード機に掛けることで同様の織りを再現することができました。この紋紙製造装置も革新性の一つといえます。
ところが、この画期的な電気紋織機が後の博多織機の主流となったわけではありませんでした。不景気や戦争の影響を受け、またあまりに革新的すぎたため、旧来の技術者から仕事を奪いかねないとの批判もあり、金作独自の技術にとどまってしまったのです。電気紋織は時代を先取りしすぎて、博多織の歴史の中に埋もれてしまった幻の技術でした。(石井和帆)