博多祇園山笠展20―修羅山にみる武将と勇士たち―
令和3年6月22日(火)~8月29日(日)
博多祇園山笠の発祥(はっしょう)は中世にさかのぼるといわれ、町の人々が悪疫退散(あくえきたいさん)を願って、人形を飾った山を、自分たちで舁(か)いて博多中を廻(めぐ)る勇壮な夏祭りです。
今回の展示は、江戸時代の終わりから明治頃の山笠のうち、「修羅(しゅら)もの」と呼ばれる山をとりあげ、この時期の疫病や流行病と山笠のかかわり、そこに秘められた歴史と文化を紹介します。
博多祇園山笠と修羅の山の始まり
江戸時代の前期、17世紀前半頃には、町々がまとまった7つの流(ながれ)で、順番に一番山から六番山までの6つの山笠を仕立てるようになりました。福岡藩の儒学者(じゅがくしゃ)・貝原益軒(かいばらえきけん)によると、当初の山笠は高い台を絹(きぬ)で包み、天辺(てっぺん)や廻りに何本もの旗をさし、本物の甲冑を着せた人形を飾る、素朴で豪快(ごうかい)なものでした。太平の世が進むにつれ、女性の物語を題材に人形を飾った華やかな山も混じって仕立てられるようになり、筑前国内外から多くの見物客で賑わいました。
その後、宝永(ほうえい)5(1708)年に藩は1、3、5の奇数(きすう)番を、合戦を題材にした勇ましい武将たちの人形を城壁と旗を背景に飾る「修羅(しゅら)もの」(旛指(はたさし)山)、残る偶数(ぐうすう)番は、女性や公家(くげ)の優美な物語を題材にした人形を、清道旗(せいどうき)を立てた御殿(ごてん)を背景に飾る「蔓(かずら)もの」(堂(どう)山)とするよう命じました。
勇壮で力強い幕末の修羅の山
福岡藩主だった黒田(くろだ)家に博多の町から献上された、幕末の山笠図のうち、まずは修羅ものの題材を紹介します。日本の神代や古代の武勇に優れた天皇や大臣、平安・鎌倉時代では、源平合戦の勇将・源義経(みなもとよしつね)、京都宇治川(うじがわ)での先陣争いで有名な佐々木高綱(ささきたかつな)、安土(あづち)・桃山(ももやま)時代では豊臣秀吉(とよとみひでよし)とその家臣の大名加藤清正(かとうきよまさ)などがあります。変わり種として、おとぎ話の桃太郎(ももたろう)、猿蟹合戦(さるかにがっせん)の山や、中国の王朝興亡(こうぼう)の歴史から題材を取った山もありました。
負けてはいない蔓の山
いっぽう優美な蔓の堂山も、お堂を屋敷や社殿(しゃでん)などにみたて、妖怪(ようかい)や怪物を退治する題材のものもあり、悪疫退散(あくえきたいさん)の威力(いりょく)では引けを取りません。平安時代の百足(むかで)退治で有名な俵藤太(たわらのとうた)(藤原秀郷(ふじわらひでさと))、筑前(ちくぜん)宗像(むなかた)の神官が海に鐘ごと龍を鎮(しず)める話など、諸処に武勇が見られます。